更新日: 2024年1月15日
大友氏の壮絶な家督争いとは?~肥後を支配した守護代の骨肉の争い
戦国時代、豊後(ぶんご)・筑後(ちくご)・豊前(ぶせん)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・筑前(ちくぜん)の6ヶ国を領有し、支配した守護職・大友氏の、血を血で洗う骨肉相食む争いの行方は⁉
目次
大友氏隆盛の歴史
大友氏の初代当主・大友能直(よしなお)は、相模国愛甲郡(現在の神奈川県愛甲郡)の郷司・近藤能成(よしなり)(古庄能成とも)の息子として生まれたとされています。源頼朝に仕えて、1196(建久7)年に豊前・豊後の守護兼鎮西奉行となり、九州における一族の基盤を築いたとされます。
大友氏の勢力は戦国時代に入り拡大
その大友氏が大きく勢力を拡大するのは、20代当主の大友義鑑(よしあき)と21代大友義鎮(よししげ)(法号:宗麟(そうりん))の時代です。
大友義鑑は1515(永正12)年に、豊後・筑後・豊前の守護に任じられていた父・大友義長の隠居を受けて家督を継ぎます。一時、豊前を拠点とする大内義隆の侵攻を受けて劣勢に立たされた時期もありましたが、足利将軍家との緊密な関係を築き、1543(天文12)年には肥後国の守護の座に就きました。
さらに21代当主の大友義鎮の時代には、大内義隆が家臣の陶隆房(すえたかふさ)の謀反にあって自害したのに乗じて実弟の大友晴英(はるひで)(大内義長(よしなが))を大内氏の新当主として送り込み、北九州の支配権を確立。
大友氏は九州有数の勢力となるが家督争いが激しくなる
1554(天文23)年には肥前の守護に、1559(永禄2)年には豊前・筑前の守護職となると同時に九州探題にも補選され、その支配圏は、豊後・筑後・豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と九州の半分以上を占めました。しかし、そこに至るまでの過程で、家督を巡ってすさまじいほどの一族間の争いがあったのです。
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