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懐良親王の征西府跡は?~熊本の南北朝時代を象徴 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

懐良親王の征西府跡は?~熊本の南北朝時代を象徴

南朝・北朝の激戦の舞台となった八代地方には今も当時の遺跡が数多く残ります。征西府と古麓城が時代と共にたどった数奇な運命とは?

懐良親王は劣勢となった南朝方立て直しのため九州へ

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政に踏み出しますが足利尊氏の離反で失敗し、足利幕府側の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて激しく覇権を争うこととなりました。しかし、南朝側は次第に劣勢となります。そこで後醍醐天皇は自らの皇子たちを各地に派遣して起死回生を狙います。
そのとき、征西(せいせい)将軍として九州に派遣されたのが、懐良親王です。とはいえ年齢も幼く、従者もわずか12名にすぎなかったといいます。

懐良親王の大宰府入りの経路

懐良親王一行が九州へ向けて出発した時期については、1336(延元元)年、1338年、1339年と諸説ありますが、当時、太宰府を中心とした九州北部は北朝勢力の勢力圏内にありました。そのため、伊予国(いよのくに)(現在の愛媛県)を経由して、まず薩摩国の谷山城に入り、1347(正平2)年に太宰府を目指して北上を開始しました。

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