更新日: 2024年1月15日
【青森県と戦争】弘前に「陸軍第8師団」、大湊に「大湊水雷団」 軍事都市化し激化に飲み込まれていく
明治以降、弘前や大湊は軍都と呼ばれるようになっていきます。やがて太平洋戦争の末期になると、青森も米軍の標的とされるのでした。
【青森県と戦争】弘前に駐屯された陸軍第8師団
日清戦争(1894~1895年)のあと、日本とロシアは満州(中国東北部)の支配権を巡って対立しました。日露関係の緊張が高まるとともに日本は軍備を拡張し、師団を増設します。そして、1896(明治29)年に弘前に駐屯することになったのが陸軍第8師団でした。弘前には青森、秋田、岩手の各県から兵が集められ、陸軍への納入業者や将兵を対象とした商売が成り立ち、弘前はにわかに軍都として活況を帯びていきます。
日露戦争(1904~1905年)が初陣となった第8師団は奉天会戦(ほうてんかいせん)で大活躍し、1937(昭和12)年以降は満州に移駐。のちにフィリピン戦線に投入されルソン島で終戦を迎えますが、その間にも弘前には留守師団や補充部隊が配置されました。
大湊は大湊水雷団が配置されて軍港に
大湊(むつ市)は1902(明治35)年に海軍の大湊水雷団(のち大湊要港部)が置かれて軍港となり、北方海域の警備を担いました。同年には海軍専用の水道工事が行われ、1910(明治43)年に竣工。戦後は1976(昭和51)年までむつ市の上水道として使用され続けました。現在も遺構がむつ市水源池公園内にあり、2009(平成21)年に国の重要文化財に指定されています。
陸軍第8師団「八甲田山雪中行軍」の悲劇
1902(明治35)年、第8師団は青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊に八甲田山での雪中行軍訓練を命じます。ですが、折悪く北日本には記録的な寒波が到来し、猛吹雪による視界不良と極寒で青森歩兵第5連隊の行軍部隊は遭難。210人中、199人もの凍死者を出します。なお、十分な装備を整えて出発した弘前歩兵第31連隊の部隊は行軍に成功しました。
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