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【青森県の縄文遺跡】三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)

青森の縄文遺跡でとくに知名度が高いのは三内丸山遺跡でしょう。沖館川(おきだてがわ)右岸の標高20mほどの河岸段丘上に位置する三内丸山遺跡は、1992(平成4)年から始まった発掘調査で発見された。約35ヘクタールという広大な面積からは、今から5900年前~4200年前の竪穴住居跡や掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)が複数見つかり、日本最大級の縄文集落であったことがわかっています。竪穴住居のなかには幅10m以上の大型のものがいくつも出土しており、最大のものは長さ32m、幅10mにも及んでいました。

三内丸山遺跡の六本柱建物跡

なかでも特筆すべきは、地面に穴を掘って柱を立てた建物跡(六本柱建物跡)で、長方形の大型高床建物の跡と考えられています。その柱穴は直径2m、深さ2mで、6本の柱は4.2mの等間隔であり、この時代にはすでに測量の技術が確立していたことが推測されます。

また、三内丸山遺跡から出土したマメ、ヒョウタン、ゴボウなどをDNA分析したところ、これらは栽培されたものであることが判明しました。2000点近い出土品のなかには、糸魚川(いといがわ)(新潟県)産のヒスイ製玉類、十勝(北海道)・男鹿(おが)(秋田県)・月山(がっさん)(山形県)・佐渡(新潟県)産の黒曜石を用いた石鏃(せきぞく)、久慈(くじ)(岩手県)産などの琥珀、八郎潟産(秋田県)の天然アスファルトなど、他地方からの遺物も数多く発見されています。この地方を中心とした広範な交易圏が存在していたようです。

このように三内丸山遺跡は農耕以前の社会のあり方や、そこに暮らした縄文人の精神文化の実態を示しており、「世界遺産」の名にふさわしい遺跡といえるでしょう。

特別史跡 三内丸山遺跡

住所
青森県青森市三内丸山305三内丸山遺跡センター
交通
JR青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡行きで30分、三内丸山遺跡前下車すぐ
料金
観覧料=一般410円、高・大学生等200円、中学生以下無料、特別展の観覧料やもの作り体験に係る材料費は別途必要/(20名以上の団体で一般330円、高・大学生等160円)

【青森県の弥生遺跡】稲作を基盤とする文化と北海道で発達した擦文文化が交錯

紀元前4世紀頃、朝鮮半島や中国大陸から北九州にもたらされた水耕稲作は、徐々に東日本へと伝播していきました。次第に狩猟採集から農耕を基本とする社会へと変容していき、弥生時代が到来します。しかし、当時の稲の品種や農耕技術では冷涼な土地での耕作は難しく、水田跡が見つかっていない北海道では、縄文時代と同様に狩猟採集生活が行われたとして「続縄文時代」という時代区分が用いられています。

弥生時代の終わり頃に、北海道から続縄文文化が流入。続縄文土器は、のちに南方から伝わった土師器・須恵器の登場によって消滅する。8世紀ごろ、北海道で土師器の影響を受けた擦文土器が生まれ、青森にも伝播した。

【青森県の弥生遺跡】垂柳遺跡(たれやなぎいせき)

かつては青森県域を含む東北地方北部も「弥生時代はなかった(稲作文化は伝わっていなかった)」と考えられていました。垂柳遺跡(田舎館村)での発掘調査は、そうした認識を覆すものでした。垂柳遺跡からは籾痕(もみあと)のついた土器と炭化米が見つかっていましたが、1981(昭和56)年には弥生時代中期末の水田遺構が検出されました。青森県域で水田跡が見つかったことにより、考古学史や農業史は大きく塗り替えられたのでした。

この水田遺構は火山灰層に覆われていたために保存状態は良質で、当時の人びとの足跡まで確認できました。足跡には大人と子どものものが混在しており、家族総出で稲作に従事していた様子がうかがえます。

【青森県の弥生遺跡】砂沢遺跡(すなざわいせき)

また、砂沢遺跡(弘前市)はもともと縄文遺跡として知られていましたが、1984(昭和59)年の発掘調査では弥生時代前期の水田遺構も見つかりました。垂柳遺跡より古い時代の水田遺構が、さらに北側で発見されたことにより、青森県域における弥生時代の始まりが再考されたのでした。

砂沢遺跡からは遠賀川(おんががわ)式土器が出土した点も見逃せません。遠賀川式土器とは、立屋敷(たてやしき)遺跡(福岡県遠賀郡)から見つかった弥生時代前期の土器形式の総称です。稲作が日本列島に入ってきた初期の段階に遠賀川流域でつくられた薄手の赤褐色の土器であり、青銅器や鉄器、銅鏡や銅鐸などと一緒に、稲作文化の重要な道具として東へと伝わっていったもので、遠賀川式土器の分布によって弥生文化が広まっていった経路を知ることができます。つまり弥生時代前期という、稲作伝来からさほど時間の経っていない時期に、少なくとも津軽平野には弥生文化が到達していた可能性が高いことになります。東北における弥生社会を解明するうえで、極めて重要度の高い遺跡といえるでしょう。

砂沢遺跡は本州最北端の水田跡であり、稲作は津軽海峡を越えることができなかったとするのが現在の定説です。とはいえ、東北北部から北海道南西部にかけては共通の文化を持っており、縄文時代前期には同じ円筒土器文圏でした。

青森の遺跡からわかる北海道の擦文文化との交錯

紀元前3世紀~後7世紀頃の北海道では、縄文時代の流れを汲む続縄文土器(北大式土器)が成立。律令国家の北進にともない、古墳時代に生産されるようになった土師器(はじき)が青森県域に入ってきますが、8世紀末頃から北海道では土師器の影響を受けた擦文(さつもん)土器が誕生します。青森県域では、9~11世紀の遺跡から擦文土器が見つかっており、津軽海峡を挟んで交易をしつつ、互いに影響を及ぼし合っていたようです。

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Part.1 地図で読み解く青森の大地

・津軽・下北半島が陸奥湾を抱き 県央を貫く奥羽山脈が地形を二分
・火山がもたらした絶景や石灰岩 下北半島に刻まれた列島誕生史
・二重カルデラの十和田湖が生んだ奥入瀬渓流の渓谷美
・津軽富士と称される美しい岩木山は荒々しい火山地形を残す活火山
・古いカルデラの上に形成された八甲田山は火山地形の宝庫!
・東に段丘・西に砂丘・南に扇状地 岩木川がつくった津軽平野
・かつて潟湖だった小川原湖と広大な上北平野ができるまで
・地すべりでブナの原生林が誕生 太古の森が残る白神山地の成り立ち

・・・など

Part.2 青森を駆け抜ける鉄道網

・日本鉄道の駅として明治期に開業 北への玄関となった栄光の青森駅
・E5系・H5系「はやぶさ」が走り延伸を続ける東北・北海道新幹線
・車内で津軽三味線の生演奏!?「リゾートしらかみ」がゆく五能線
・函館への海底トンネルを掘削!?大湊線・大畑線・大間線の大計画
・日本初のステンレス車も活躍する東北最大の私鉄 弘南鉄道がすごい
・黄金の東北本線は新幹線で激変 新時代を走り出した青い森鉄道
・冬は石炭炊きのストーブ列車!ローカル私鉄・津軽鉄道の魅力
・レトロなレールバスがみちのくの原風景を走った幻の南部縦貫鉄道

・・・など

Part.3 青森で動いた歴史の瞬間

・マンモスを追ってきた人類が定着 中央に属さない独自の文化が発展
・豊かな自然のもとで生まれ1万年にわたり続いた縄文文化
・稲作を基盤とする弥生文化と北海道で発達した擦文文化が交錯
・和人の律令国家に取り込まれず蝦夷の地として交易で発展する
・奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされ武士たちの激しい抗争の時代へ
・十三湊を制して栄えた安東氏と室町期に台頭した南部氏の争い
・北東北最大勢力の南部氏から独立し弘前藩を築いた津軽氏とは?
・藩境争いに暗殺未遂、戊辰戦争…度重なる津軽と南部の紛争
・戊辰戦争後に紆余曲折を経て青森県が成立し近代化していく
・港町から県都となった青森では町人中心の町づくりが進んでいく

・・・など

Part.4 青森で育まれた産業や文化

・霊媒師イタコが霊場・恐山の象徴的存在となった理由
・諸大名が財を投じて求めた南部駒 青森県の馬産の歴史は古代から!?
・築100年のダムが現役!耐久性の高い青森ヒバ
・岩木山麓の原野を切り拓いて旧藩士たちが始めたリンゴ栽培
・大間のマグロに陸奥湾のホタテ! 青森県で水産物が豊かな理由とは?
・船上に車両を載せて海を渡る! 青森〜函館をつないだ青函連絡船
・セメント工場の設立をきっかけに漁村から工業地帯に変貌した八戸
・米軍・自衛隊・民間が利用する三沢飛行場は旧海軍航空基地だった

・・・など

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