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山形県の城と城下町~山形城・米沢城以外にも最上氏の改易により城下町が整備された近世 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月16日

山形県の城と城下町~山形城・米沢城以外にも最上氏の改易により城下町が整備された近世

中世に軍事拠点として数々の城が築かれますが、近世に入り世の中が安定すると、城下町の整備が活発になります。近世初期、県域の城下町は山形と米沢のみでしたが、最上氏が改易となり、最上氏の重臣が住んでいた鶴岡・新庄・上山に新大名が入って城下町ができました。城下町は今の町並みの原型になっています。江戸時代の絵図と現代の地図を見比べてみましょう。

【山形の城と城下町】山形城

馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)扇状地の扇端部に位置する平城。14世紀半ばに最上氏の祖である斯波兼頼(しばかねより)によって築かれ、16世紀末に最上義光(よしあき)が整備しました。本丸・二の丸・三の丸それぞれの周囲が濠で囲われており、最上氏時代は二の丸と三の丸に上・中級家臣の屋敷がありましたが、最上氏改易後は空き地が増えます。

城の東側を南北に走るように羽州街道が引き入れられ、その沿道に商人町が配置されました。街道の北端には鍛冶町(かじまち)、南端に鉄砲町、裏通りに材木町・桶町(おけちょう)などの職人町が置かれます。それら町人町の外側を、上級家臣の下屋敷や足軽屋敷が囲んでいます。そして、城下の南北にそれぞれ防衛拠点として寺町が形成されました。

鳥居忠政によって整備された山形五堰

最上氏の改易後に入った鳥居忠政(とりいただまさ)は、洪水被害の軽減のため、城のすぐ北を流れていた馬見ヶ崎川を改修して流路をさらに北へ変更。濠水や農業・生活用水の確保のため、馬見ヶ崎川から水路を引いて城下に網目状に巡らせました。こうしてつくられた笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)の五つの水路は「山形五堰」と呼ばれ、現在も農業用水や親水施設として市民に親しまれています。

いっぽう、明治期の三島通庸(みしまみちつね)による近代的都市整備は羽州街道を中心に行われ、主要な都市機能は城から城下へ移りました。

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