更新日: 2024年1月17日
島根の名城「月山富田城」「津和野城」「松江城」とバリエーション豊か
山陰一の戦国大名・尼子(あまご)氏の居城で難攻不落だった月山富田城、中世から近世まで利用された津和野城、国宝の松江城、県内を代表する3つの城を紹介します。
島根の名城①:尼子氏の居城「月山富田城」
島根県を代表する戦国大名といえば、尼子氏です。14世紀末、出雲守護・京極(きょうごく)氏の一族だった尼子持久(もちひさ)が守護代として近江(滋賀県)から出雲に来たとされます。持久の孫の尼子経久(つねひさ)が15世紀末に守護代を継ぐと勢力を拡大。京極氏をしのぐ権力を手に入れ出雲を抑えると、伯耆(鳥取県中西部)、因幡(鳥取県東部)、石見、備後(広島県東部)、安芸(広島県西部)などに侵攻し、中国地方の一大勢力となりました。
しかし西国一の大名だった大内氏と衝突。1541年、経久の孫・尼子晴久(はるひさ)が大内方だった安芸の毛利元就(もうりもとなり)の居城・吉田郡山城を攻めますが、大内・毛利の連合軍に敗退します。
1542年、尼子氏の居城だった月山富田城(安来市)は大内義隆(おおうちよしたか)の率いる大軍に包囲されてしまいます。翌年3月には菅谷口・塩谷口を攻撃されたものの、月山富田城は落とされることがありませんでした。
月山富田城は毛利元就に包囲されたのち開城、尼子義久は降伏
城にある3本の登城路は谷筋にあり、谷を進撃してくる敵を両側から攻撃できるという構造になっています。同年5月には、尼子晴久は配下の出雲や石見の領主に裏切られ敗退しました。その後、勢力を挽回し、出雲や伯耆など中国地方8か国の守護に任ぜられます。
そのころ、毛利元就が大内氏の重臣だった陶晴賢(すえはるかた)を討ち、大内氏に代わる強大な勢力となり石見に侵攻してきました。一進一退をくり返す尼子と毛利でしたが、1560年に尼子晴久が急死し、若い尼子義久(よしひさ)が跡を継ぐと次第に不利となります。月山富田城を包囲され、元就の粘り強い作戦で完全に孤立した尼子義久は、1566年に開城し降伏しました。
「月山富田城」は難攻不落の城
1569年に山中鹿介(やまなかしかのすけ)ら尼子再興軍が出雲に上陸し、毛利氏が守る月山富田城を攻めますが撃退されています。3度も攻撃されましたが力攻めでは落ちることがなかった月山富田城は、天下の名城というにふさわしいでしょう。
現在は「道の駅広瀬・富田城」から山中御殿や七曲がりを経て本丸に至るコースが整備されていますが、未整備のコースの東側一帯には尼子氏時代のものと思われる多数の曲輪があります。
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