更新日: 2024年1月17日
古代山陰道のルートとは?朝廷との情報伝達に使われた官道
朝廷が都と地方との連絡のために整備した駅路(えきろ)。島根には「山陰道」と呼ばれた幹線が出雲(いずも)から石見(いわみ)にかけて東西に延び、隠岐(おき)へは海路も定められていました。
古代「山陰道」は「駅路」の区域名称
古代日本の律令国家は、全国を五畿七道に区分し、都からそれぞれの国府への幹線道路「駅路」を整備しました。駅路は、朝廷からの公文書の伝送や、朝廷の官人(かんにん)の公務出張など公用のための官道で、三十里(約16㎞)ごとに休憩や宿泊、馬の乗り継ぎのための駅家(うまや)が設置され、定められた頭数の駅馬(はゆま)が置かれました。駅路は速達性を最優先にした計画道路です。カーブや勾配を極力減らし、最短距離で設計された直線的な道で、横幅も約10メートル前後と当時としては画期的な広さでした。各国はさらに郡という行政区分に分けられており、国府から郡の役所である郡家(ぐうけ)への支線「伝路」もありました。こうして都からの情報を全国隅々まで伝える仕組みが整っていったのでした。区域名称の「山陰道」は同時に駅路の名称でもありました。
古代「山陰道」の駅路では各5頭の駅馬を常備
山陰道では各駅5頭の駅馬を常備していました。文書伝送などの公務を担った駅使(えきし)は、朝廷や国府から乗用を許可された駅馬の頭数が刻まれた「駅鈴(えきれい)」を証明として携えていました。
島根県隠岐の島町の億岐家(おきけ)に伝わる「八稜鈴(はちりょうれい)」は全国で唯一現存する駅鈴の実物です。現在、国の重要文化財に指定されており、億岐家宝物殿で見ることができます。
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