更新日: 2024年1月17日
大河兼任VS鎌倉幕府!八郎潟東岸を拠点とする豪族の反乱
源頼朝は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼします。
ですが、奥州藤原氏の旧臣は、鎌倉政権に対して従順に従うものばかりではありませんでした。
鎌倉幕府に反発する勢力が挙兵
1189(文治5)年、源義経を匿ったことを口実として、源頼朝は奥州に攻め込み、奥州藤原氏を滅ぼしました。合戦後、藤原氏の旧領には東国武士が地頭職として配されましたが、藤原氏の旧臣や在地勢力とのあいだに軋轢が生まれました。
奥州合戦の終結からわずか3カ月後の同年12月、鎌倉政権に反抗する勢力が挙兵するに及んだのです。
当初、反乱軍を率いる首謀者は、死んだはずの「伊予守(いよのかみ)義経」(源義経)とか「朝日冠者」(木曾義仲(きそよしなか)の嫡男)と称し、出羽国海辺庄(山形県酒田市・東田川郡)や山北郡(せんぼくぐん)(仙北郡)で挙兵し、鎌倉政権を動揺させました。
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