更新日: 2024年1月18日
三閉伊一揆はどうして起こった?~南部藩の藩政改革を促した一揆~
江戸時代の盛岡藩では農民一揆が頻発しました。
とくに19世紀に起こった三閉伊地方での一揆は、1万人以上が参加する大規模なものへと発展しました。
目次
三閉伊一揆が起こる要因のひとつとなった冷害と飢饉
江戸時代を通じて、盛岡藩内では140件以上もの農民一揆が起こりました。隣の仙台藩の14件と比べればその差は歴然で、盛岡藩は全国でもトップクラスの一揆発生藩でした。なぜ盛岡藩では、これほど農民一揆が頻発したのでしょうか。
要因のひとつとして、藩領の農業生産力の低さが挙げられます。東北地方の太平洋側はヤマセ(冷たく湿った風)が吹くので、盛岡藩領は冷害に悩まされ続けました。江戸時代に盛岡藩領で起こった不作は合計92回、飢饉に至った年は17回。
とりわけ盛岡四大飢饉(元禄、宝暦、天明、天保)は被害が甚大で、数多くの餓死者を出しました。天明の飢饉(1782~1788年、盛岡では1783年~)の際には、盛岡藩の全人口35万人のうち、6万人以上の餓死者・病死者が出たとされます。
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