更新日: 2024年1月18日
蝦夷の首長アテルイとヤマト王権の熾烈な争い
律令国家が陸奥国まで支配の手を伸ばしてきました。
そのとき蝦夷たちは激しく抵抗し、首長アテルイをリーダーとする大規模な反乱へと発展しました。
目次
蝦夷とヤマト王権
畿内(きない)に興ったヤマト王権は豪族による連合統治体制でしたが、645(大化元)年に有力豪族の蘇我氏(そがし)を暗殺するクーデター(乙巳の変)が勃発。以後、天皇を中心とする中央集権国家を建設するために、政治改革が行われました(大化の改新)。
律令体制が確立する過程で、7世紀中頃には陸奥国(むつのくに)が設置されます。当時の陸奥国の領域としては、現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域、茨城県の北西部と、かなり広範な地域を含んでいました。701(大宝元)年には大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されますが、岩手県域をはじめとする東北地方の北部は「国家」の領域には入っていませんでした。ヤマトは、文化や習俗の異なる「毛人(もうじん)」(『宋書(そうじょ)』夷蛮伝(いばんでん)・倭国条(わこくじょう))を、自分たちとは明確に区別していたのです。
やがて律令国家に服属しない未征服地域は「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)と認識されるようになり、そこに住まう人々を「蝦夷(えみし)」と呼ぶようになりました。
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