トップ > カルチャー >  北陸 > 富山県 >

佐々成政が通ったと考えられる3つのルート

厳冬の北アルプスを越えたとは信じられない話ですが、家康の家臣・松平家忠の『家忠日記』には、浜松へ出向いた佐々成政が吉良(きら)(現在の愛知県西尾市)で織田信雄と対面したと記されていることから、佐々成政が浜松へ辿り着いたこと自体は事実のようです。また、『当代記』という記録では、往路・復路ともに、当時家康の支配下にあった信濃国(長野県)を通ったことも記されています。となると問題は、越中から信濃までのルートです。

さらさらの呼び名は、立山連峰のザラ峠からきています。従来の説では、佐々成政はこのザラ峠を越えたと伝えられているからです。このルートでは、ザラ峠(標高2348m)を越えた後、黒部川を渡って針ノ木峠(標高2536m)を越え、大町、松本に至ります。標高2000m以上の峰を2つも越える行程は、過酷そのもの

佐々成政が通った別のルートの可能性

ほかに可能性があるルートは2つ。1つは飛騨ルートです。富山城を出て南に進み、飛騨(現在の岐阜県飛騨市・高山市・下呂市・大野郡)を通り、安房峠(あぼうとうげ)か中尾峠を越えて、松本に至ります。ザラ峠ルートに比較すると、その行程は標高が低いのです。

もう1つは糸魚川ルート。まず富山城から北東に進み、富山湾岸へ。日本海沿いに糸魚川まで進み、そこから南下し、大町を経て松本へと向かいます。北アルプスを大きく迂回するため、3つのルートの中では最も低い標高です。

佐々成政は決死の峠越えもむなしく秀吉に降伏

今のところ飛騨ルートが最有力という見方はあるものの、3つのうちどれが真実であるかは、まだ解明には至っていません。しかしどのコースであっても、ただでさえ過酷な雪山を現代のような便利な装備もなしに進んだことに変わりはありません。まさに捨て身で挑んだ説得でしたが、その甲斐も空しく、信雄や家康に協力を断られてしまったのは切なくもあります。越中に戻った佐々成政は、秀吉に降伏。その所領の大半を取り上げられてしまいました。

①は従来の説にあるザラ峠を越えるルート。②は富山城から南下する飛騨ルート。③は富山城から北上し、糸魚川を経由するルート。

佐々成政の功績「佐々堤」

さらさら越えのエピソードに霞みがちですが、佐々成政の功績の最たるものは「佐々堤(さっさてい)」です。たびたび氾濫を起こしていた常願寺川(じょうがんじがわ)の治水のため、長さ約150m、幅約140mにも及ぶ堤防のことで、佐々成政自らが指揮を執り、人海戦術で巨石を集めて1年かけて完成させました。その遺構は、現在も富山市馬瀬口の常西用水の川底で見ることができます。

佐々成政の人柄

佐々成政の人柄を伝えるエピソードとしては、天正13(1585)年の地震の際は、滞在先の大坂から越中へ急行し、被害状況の把握に努めたことが伝えられています。被災地を視察しながら悲痛な思いを歌に詠むなど、領地や民のことを考え続けたといいます。

佐々成政の織田信長への忠心

織田信長への忠心が厚かったことで知られていますが、その信長に諫言したことも。信長が浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その後の正月の宴で両者の薄濃(はくだみ)(頭蓋骨を漆で固め、彩色を施した杯)を披露したときのことです。この信長の蛮行に対し、「人の道に外れるようなことをしていては、天下を治めることはできない」と苦言を呈したといわれています。よく秀吉などが狡猾と評される一方、佐々成政は極めて実直な人物だったようです。この一本気があれば、さらさら越えも不可能ではなかったのかもしれません。

佐々成政の最期

ところで佐々成政は、秀吉に降伏後、どのような人生を辿ったのでしょうか。命は助かったものの、大坂に妻子とともに移住させられ、そこでしばらく秀吉に仕えます。天正15(1587)年の「九州征伐」に出陣して戦功を挙げたことから、肥後(熊本県)一国の領主に返り咲きます。しかし着任して間もなく肥後で一揆騒動が起こり、治安が悪化。佐々成政はその責を問われ、尼崎の法園寺(ほうおんじ)で切腹させられました。このとき、短刀を横一文字に引いたあと、自分で臓腑をつかみ出して天井に投げつけたともいわれています。

佐々成政は天皇から哀悼の書を賜った唯一の武将

佐々成政の墓が立つ法園寺には、佐々成政の死を悼んだ後陽成(ごようぜい)天皇の親筆が残されており、天皇から哀悼の書を賜わった唯一の武将といわれています。一揆を抑えられなかった熊本では暗君や愚か者といったイメージがあるようですが、富山県民の視点に立つと、愛すべき武将といえるのではないでしょうか。

『富山のトリセツ』好評発売中!

富山県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。富山の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!

Part.1 地図で読み解く富山の大地

・立山連峰との高低差4000m!「きときと」ぞろいの富山湾
・黒部ダムが大電源を生み出すまで
・崩壊を続ける立山カルデラ
・極東の氷河の南限は立山! 国内初の氷河認定とライチョウ
・神秘の光景! 魚津の蜃気楼と雨晴海岸の気嵐
・2000年前に形成された魚津埋没林
・富山の水がおいしいヒミツ
・立山の地下には「何か」がある! 活断層はあるのに地震が少ない理由
・富山湾のホタルイカはなぜ有名?

…など

Part.2 富山を駆ける充実の交通網

・北陸新幹線開業による光と影
・河川敷にある富山きときと空港
・SDGs未来都市に選定 ライトレールが象徴するまちづくり
・伏木港は神戸港に憧れた男の夢
・立山の観光ルートは1つじゃない? 一般開放が待ち遠しい黒部ルート
・マッターホルンの麓町から着想 低速電気バスEMUと宇奈月温泉
・鉄オタ集結地! 富山県は公共交通の宝庫
・V字峡谷を走るトロッコ電車

…など

Part.3 富山の歴史を深読み!

・江戸時代は鮎だった! 駅販売で広がったます寿し
・富山県成立までの複雑な歴史/越中の英雄・佐々成政の人物像
・焼け野原と化した富山大空襲/富山の遺跡&古墳は個性派ぞろい
・放生津に存在した亡命政権
・越中の伊能忠敬 射水出身の測量家・石黒信由
・越中の黄金郷 加賀藩極秘の「越中の七かね山」
・北陸近代医療の父・黒川良安
・世界遺産は加賀藩の軍事工場 五箇山でおこなわれた塩硝づくり

…など

Part.4 富山で育まれた文化や産業

・「越中おわら節」はなぜ有名?
・財政難を立て直した富山の売薬
・布教のためのテキストだった 曼荼羅から読み解く立山信仰
・秀吉も称えた伝説の刀工・郷義弘
・売薬商人は危ない橋を渡っていた? 薬の密貿易が生んだ昆布文化
・有名な創業者も多く輩出 富山県民は倹約家で働き者
・ジャポニズムの立役者・林忠正
・アニメの聖地が多い富山県
・瑞泉寺再建から始まった井波彫刻

…など

『富山のトリセツ』を購入するならこちら

リンク先での売上の一部が当サイトに還元される場合があります。
1 2

記事をシェア

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  北陸 > 富山県 >

この記事に関連するタグ