更新日: 2024年1月22日
外城制度は薩摩藩独自の制度はどのように運用されたのか?
江戸時代に薩摩藩で独自に発展したのが「外城制度」です。
なぜこの制度が採用され、どのように運用されたのかを見ていきましょう。
外城制度を用いた薩摩藩の背景
薩摩藩は他藩に比べて武士がたくさんいました。戦国時代に九州全域まで版図を広げた際の家臣をそのまま召し抱えていたことや、徳川幕府を警戒して軍備を整えていたことなどが理由として考えられます。ともあれ、藩内での武士の比率は江戸時代を通じて変わることがありませんでした。
明治維新直後の1871(明治4)年に実施された鹿児島県禄高(ろくだか)調では、鹿児島県内人口の約25%が士族でした。つまり薩摩藩では4人にひとりが武士であったことになります。同時期の全国の華士卒族は6%なので、薩摩藩での武士の割合がいかに高かったかがわかるでしょう。
これだけ多くの士分を城下町に集住させることは不可能でした。そこで薩摩藩では、中世の地頭・衆中制度の流れを汲む独自の軍事・行政制度「外城(とじょう)制度」を用いたのです。
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