更新日: 2024年1月22日
益子焼の歴史~始まってまだ170年足らず?益子が「陶器の里」になったわけ~
藩の特産品から日用品へ、そして芸術品となった益子焼。民藝運動の拠点として大正時代から内外の人々を受け入れた町は、多くの個性的な作家を育んでいます。
目次
【益子焼の歴史①】始まりはペリーの黒船が来航した1853年
益子焼(ましこやき)が始まったのは、ペリーの黒船が来航した1853(嘉永(かえい)6)年の頃で、現在の茂木町(もてぎまち)から益子へ婿養子としてやって来た大塚啓三郎という人が陶祖です。この大塚啓三郎が子供時代に隣国・常陸(ひたち)の笠間焼(かさまやき)に触れ、製陶の技法を習い覚えたといいます。結婚後、家業の農業の傍窯業(らようぎょう)を起こそうとしていたところ、大沢という地に陶土を発見しました。その後、黒羽(くろばね)藩から益子の「根古屋(ねごや)」という場所に土地を与えられ、窯(かま)を築いたのが最初です。
益子焼の歴史:黒羽藩に支えられ乗り越えた創業期
啓三郎は製陶を軌道に乗せるため、旧知の笠間の陶工・田中長平を益子に呼び寄せました。1857(安政4)年には、6軒の窯元が操業していましたが思うような成果を出せず、啓三郎たちは意を決し、黒羽藩の郡奉行である三田称平(しょうへい)に資金調達を願い出ます。黒羽藩は益子焼の将来を見越し、資金を貸し出すことを承諾。藩の奨励のもと、益子焼は創業期を乗り越えていきました。
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