目次
日光東照宮の歴史:前身となる東照社の建設
これに従い、徳川家康の遺骸はすぐに現在の静岡県にある久能山に移されて葬られました。その際、神としての徳川家康に、どんな地位を与えるかでひと悶着があったといいます。徳川家康の側近でのちに日光山の貫主(かんじゅ)となった南光坊天海は「権現」号とするべきと主張。一方、同じく側近の金地院崇伝は、「大明神」号を主張します。結局は、豊臣秀吉が「豊国(ほうこく)大明神」を贈られ祀られていたことから、大明神は不吉とされて却下。朝廷から徳川家康に「東照大権現」という神号が贈られることとなります。
こうして1617(元和3)年3月、生前の徳川家康が畏敬した鎌倉幕府の創始者・源頼朝の信仰が厚かったという、山岳信仰の聖地である日光に東照社が建設され、東照大権現となった神君・家康の霊柩はこの地に無事移されました。
この時に造られた「東照社」は、現在の日光東照宮に比べるとはるかに小規模なものでした。その簡素な社を、のちに世界遺産となる絢爛豪華な建築に造り替えたのが、3代将軍・徳川家光です。
日光東照宮の歴史:家光により行われた「寛永の大造替」
祖父である徳川家康を熱烈に信奉していた徳川家光は、父・秀忠の没後、1634(寛永11)年から東照社の大造替に取りかかります。その費用は56万8000両、銀100貫匁(かんもんめ)、米1000石に及び、現在の貨幣に換算すると400億円とも1000億円ともいわれる莫大な資金が投じられました。建設に従事した者は大工等だけで延べ168万3000人、その他の作業員なども合わせると、合計約453万人といわれています。まさにそれは、徳川幕府の威信をかけた、空前の大工事でした。この「寛永の大造替」は、着工からわずか1年半という早さで竣工。のちに朝廷から「宮号」が宣下され、「東照宮」となります。
さらに1651(慶安4)年に徳川家光が死去すると、東照宮に隣接して家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)が建てられ、日光山内の寺社の形が整いました。
日光東照宮のみどころ:陽明門
日光東照宮を代表する名建築のひとつ、陽明門。入母屋(いりもや)造りの十二脚門で、江戸の匠たちが技巧の限りを尽くした、龍や唐獅子(からじし)などの霊獣、ボタンなどの植物、中国の故事を表現したものなど、500余りの彫刻があります。見とれて日が暮れてしまうことから、別名「日暮しの門」とも呼ばれています。
日光東照宮のみどころ:四睡
陽明門の彫刻のひとつ。常に虎を伴っていたという豊干禅師(ぶかんぜんじ)が、虎と弟子とともに眠る様は「四睡(しすい)」と呼ばれ、禅における悟りの境地を表しているとされています。
日光東照宮のみどころ:眠り猫
奥宮に向かう参道入口の欄間に彫られているのが「眠り猫」。名工・左甚五郎作と伝えられ、国宝となっています。猫は見る方向により眠っている、あるいは起きているようにも見えるといいます。
日光東照宮のみどころ:奥宮
徳川家康の墓所である奥宮。207の石段を登ると銅の鳥居があり、その奥に拝殿と宝塔が静かにたたずんでいます。
徳川家康はなぜ日光を自らの墓所としたのか?
ところで、徳川家康が日光を自らの墓所としたことには、道教の思想が影響しているという指摘もあります。日光は江戸の真北に位置していますが、道教では天帝のいる北極星が宇宙の中心であるとされます。また、徳川家康が最初に葬られた久能山の境内では、楼門、拝殿、本殿、墓所が北北東に向かうよう配置されています。この建物と墓所が並ぶラインを延長すると、霊峰・富士山を越え、徳川氏発祥の地という上野(こうづけ)国の世良田(群馬県太田市)を経て日光に至ります。つまり徳川家康は、一度葬られた久能山で神として蘇よみがえり、富士(不死)の山や父祖の地を越え、宇宙の中心である北の日光から幕府のある江戸を鎮護し、ひいては日本国全体を護り治めるというわけです。こうした話は多分に伝奇的ですが、徳川家康の改葬は、そのようなロマンをかきたてる出来事であるのは間違いありません。
日光東照宮の歴史とともに発展した下野国
日光東照宮の造営と発展の持つ意味は、宗教的な聖地ができたというだけにとどまりません。東照宮の完成は、その後の下野国における交通網の発達や、それによる産業の発展にも影響を与えることとなります。
まず、東照社の造営工事と完成直後に行われた祭礼やそのために始まった将軍の日光参詣(社参)により、江戸日本橋から宇都宮を経て日光門前の鉢石宿(はついしじゅく)へと至る日光街道が、幕府が定める五街道のひとつとなり、人と物の往来が急激に増大。このため江戸~日光の重要な中継地点である宇都宮では城とその城下町の整備が進められました。これにより宇都宮城は大きく拡張され、城の内外には武家屋敷が新たに造られました。城下を通る街道も付替えられ、道に沿って新しい町づくりも進められます。
そのほか、江戸から日光までの日光街道にある21の宿場が整えられ、利根川をはじめとした河川の改修も行われました。また、日光街道から分かれて壬生や鹿沼を経て、今市で再び日光街道と合流する壬生通りも整えられます。
朝廷から派遣された例幣使が通った例幣使街道
寛永の大造替以降、江戸からの将軍社参は年を追うごとに大規模となりました。1645(正保2)年、後光明天皇から宮号が宣下されて東照宮になると、翌年の祭礼には朝廷より奉幣使(ほうへいし)(幣帛を捧げる天皇の使い)が派遣されます。これ以降、日光には祭礼に合わせて朝廷から例年使いが派遣されるようになり、例幣使(れいへいし)となります。もともと例幣使は、朝廷から伊勢神宮へ送られていたのですが、応仁の乱以降、中断されていました。それが日光で復活したことで、同時に伊勢神宮への例幣使も再開されました。この例幣使が京から日光へ向かう街道は、例幣使街道と呼ばれます。京から中山道を下り、上野国倉賀野から分かれて八木宿から下野国に入る。その後、渡良瀬川を渡り佐野から栃木を経由、楡木(にれぎ)で壬生通りと合流します。
日光東照宮によって生み出された莫大な消費需要
国家的行事である社参や奉幣には、膨大な費用と多数の人や物資が必要とされます。大名や領主への費用負担のみならず、民衆にも道の整備や掃除といった労働を強いました。一方では、街道沿いの宿場や地域に莫大な消費需要を生み出すことにもなったのです。
日光東照宮の歴史:宮司となった松平容保と保晃会
明治に入り、幕府の保護を失った東照宮は、経済的に困窮します。さらに、1868(慶応4)年に出された神仏分離令により日光山は二社一寺に分割されたこともあり、日光の景観が損なわれようとしていました。こうした事態を憂慮した地元の有力者たちは、日光保存を目指した民間団体「保晃会」を立ち上げます。そして、この会長に就いたのが、元会津藩主で、日光東照宮の宮司となっていた、松平容保でした。新時代になっても、最後まで幕府に忠誠を尽くした会津藩主の精神が垣間見えるエピソードです。
日光東照宮
- 住所
- 栃木県日光市栃木県日光市山内2301
- 交通
- JR日光線日光駅・東武日光線東武日光駅から東武バス「世界遺産めぐり」で9分、表参道下車すぐ
- 料金
- 見学料=大人1300円、小・中学生450円/三猿ストラップ守=700円/三猿キーホルダー守=300円/三猿人生守=各800円/印籠守=1000円/御香守=各500円/三猿みくじ=100円/眠り猫おみくじ=100円/御朱印=400円/白檀の御香守=500円/叶鈴御守=800円/(35名以上の団体は大人1170円、小・中学生405円、障がい者手帳持参で割引あり、一部拝観制限あり、要問い合わせ)
日光東照宮の歴史以外も盛りだくさん!『栃木のトリセツ』好評発売中
地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から栃木県を分析!
栃木県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。栃木の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。地図を片手に、思わず行って確かめてみたくなる情報満載!
Part.1 地図で読み解く栃木の大地
・雷が多い理由は地形にあり!
・奥日光は男体山がつくった?
・日本最大の渡良瀬遊水地ができた理由
・川を横切る川!? 不毛の扇状地を潤す那須疏水
・奈良の大仏に那須の金!? 栃木は地下資源の宝庫だった!
・F.L.ライトが山ごと買った大谷石の魅力
・葉脈から動物の体毛までくっきり! 古塩原湖に眠る太古の記憶
・栃木にゾウやサイがいた! 化石と野州石灰の産地・葛生
Part.2 栃木を走る充実の交通網
・県南を通る予定だった!? 東北本線の紆余曲折
・日本のマンチェスターを目指せ! 織物の街をつなぐ両毛線
・栃木随一の観光地をめぐるJR日光線と東武日光線の軌跡
・地域の産業を牽引した人車鉄道/郷愁誘う各地の廃線をたどる
・わたらせ渓谷鐵道の前身は足尾鉄道
・幾多の苦難を乗り越えた真岡線
・構想から25年を経て着工! 宇都宮~芳賀にLRTが走る
・要衝・下野国を貫く街道の変遷
・舟運で“蔵の街”となった栃木市
Part.3 栃木で動いた歴史の瞬間
・なぜ「那須」が付く市や町が多い?
・遺跡からたどる東山道と律令期の下野国
・平将門を討った豪傑・藤原秀郷とは何者か?
・足利氏には2つの流れがあった! 鎌倉幕府と下野御家人の関係
・名族宇都宮氏の栄枯盛衰
・ザビエルやフロイスも讃えた「坂東の大学」足利学校
・江戸幕府最大の聖地・日光東照宮創建
・廃藩置県、そして栃木県誕生!
・「一の宮」が2つ? 日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社
・不毛の原野が酪農王国に! 那須野が原の大開拓
Part.4 栃木で生まれた産業や文化
・木綿、紬、絹織物、麻…栃木は織物の名産地
・益子焼が始まってまだ170年足らず? 益子が「陶器の里」になったわけ
・半世紀にわたって生産量日本一!! 栃木はなぜいちご王国になった?
・関東平野が工業誘致にぴったりだった? 宇都宮は新たなものづくり都市へ
・「それって栃木?」県名抜きで知名度の高い観光名所
『栃木のトリセツ』を購入するならこちら
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!