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喜連川藩とは? 家格は大大名並み、石高は旗本並み?の特別待遇 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年9月12日

喜連川藩とは? 家格は大大名並み、石高は旗本並み?の特別待遇

たった5000石と旗本並みの石高ながら、徳川御三家や100万石の大大名と肩を並べる家格で、「御所」という呼び名まで許されていたのが、下野の喜連川藩です。

喜連川藩の喜連川家は旗本並みの石高ながら家格は大大名並み

江戸時代、3代将軍・徳川家光の定めにより、1万石以上の所領を持つ武家は「大名」とされました。一方、1万石以下で幕府直轄の武士は直参と呼ばれ、そのうち将軍へのお目見えが許される上級武士は旗本、お目見え以下は御家人とされました。そんな時代の5000石というと、旗本としては大身ですが、大名としては最小どころか、そもそも大名に成りえない規模の石高です。にもかかわらず、10万石の武家に相当する家格が与えられていたのが、下野(しもつけ)国の喜連川(きつれがわ)宿周辺(現・さくら市喜連川)を治めた喜連川家です。

喜連川藩の喜連川家は徳川家と対等な大名

喜連川家は、年始などに江戸城で将軍に謁見する際に、単独で謁見できる「四品(しほん)(四位)」という身分でした。四品は、通常、徳川御三家や親藩、10万石以上の石高を持つ国主格の大名にしか与えられない身分です。また、多くの大名がそのための莫大な出費で国力を弱めることとなった参勤交代や城普請などの賦役も免除されています。さらに、普通、大名というのは徳川将軍家と主従の関係を結んでいるものですが、喜連川家についてはそもそも徳川家との主従関係そのものが存在せず、自ら「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していました。つまり徳川幕府の支配する時代にあって、喜連川家は徳川家と対等な大名として存在していたのです。

喜連川藩主は「御所」という呼び名まで許されていた

なにより驚きなのは、喜連川家の当主、つまり喜連川藩主は、天皇のような極めて高位の貴人や隠居した将軍を示す号である「御所」を名乗り、非公式ながらも将軍を示す「公方」とも称していたことです。そのうえで、改易や取り潰しも日常茶飯事だった時代に12代にわたって喜連川の領地を治め、明治まで減封も国替えもされませんでした。なぜ喜連川家は、このような特別扱いを受けたのか? その理由は喜連川家の家系にあります。

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