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下野薬師寺の当時の様子

当時の下野薬師寺は、東西約250m、南北約350mという広大なもので、その規模は大和(やまと)の飛鳥寺(あすかでら)や大官大寺(だいかんだいじ)(のちの大安寺(だいあんじ))といった都の大寺院と比較しても、勝るとも劣らないものだったといいます。伽藍(がらん)は一塔三堂形式と考えられており、戒壇院の場所はわかっていませんが、現在の安国寺・六角堂が立っている場所ともいわれています。平安時代に書かれた歴史書である『続日本後記』には、下野薬師寺について「体制巍々(ぎぎ)として宛(あたか)も七大寺(しちだいじ)の如く、資財亦巨多(またあまた)なり。坂東十国の得度者(とくどしゃ)、咸此(みなここ)に萃(あつま)る」と記されており、東国最重要の仏教寺院としての繁栄と、その見事な伽藍が偲ばれます。

下野薬師寺跡・国分寺・国分尼寺跡周辺

姿川と東北新幹線を挟んで、東側に下野薬師寺跡、西側に国分寺跡と国分尼寺跡があります。下野薬師寺跡近くには「下野薬師寺歴史館」が、国分寺跡近くには「しもつけ風土記の丘資料館」が整備されています。なお、現在はすべて下野市に位置しますが、2006(平成18)年の合併までは、下野薬師寺跡は南河内町、国分寺跡・国分尼寺跡は国分寺町に属していました。

下野薬師寺に戒壇院が設けられたのはなぜ?

それにしても、なぜ都から遠く離れた下野に、日本に3つしかない戒壇院を設けるような寺院が造られたのでしょうか?この謎のキーマンとなるのが、下野国を支配していた豪族であり、藤原不比等(ふひと)と並ぶ大宝律令の選定者でもあった下毛野朝臣古麻呂(あそんこまろ)です。河内郡や都賀(つが)郡を本貫(ほんがん)(出身地)とする下毛野一族の古麻呂は、天武天皇から「朝臣」の姓を賜り、都の貴族として大きな力をふるっていました。その後、古麻呂は式部卿大将軍正四位下(しきぶきょうだいしょうぐんしょうしいげ)という高位で709(和銅2)年に他界します。こうした下毛野古麻呂の大きな政治力があったからこそ、彼の出生地である河内郡に、都の大寺院にも匹敵する規模の下野薬師寺が建立され、そこに戒壇院が設けられたのではないかと推察されています。

下野国南部は奈良時代における東国仏教の中心地だった

一方で、下野薬師寺に戒壇院が置かれる20年前の741(天平13)年、時の聖武天皇は国家鎮護のために国分寺建立の詔(みことのり)を出します。これを受け、下野国府に隣接する形で下野国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建立されました。このようにして下野国南部は、奈良時代における東国仏教の中心地として大いに栄えることとなります。

勝道上人~下野国が生んだ有名な仏教僧①~

下野国が東国における仏教の最重要地として栄えるなかで、特に傑出した仏教僧として歴史にその名前が刻まれているのが、日光開山の祖として知られる勝道(しょうどう)です。伝承によれば、勝道は幼名を藤糸丸(ふじいとまる)といい、下野国府で働く役人の子として、芳賀(はが)郡高岡(現在の真も岡おか市南高岡)で生まれたとされます。

勝道上人は山岳地で厳しい仏教修行に励んだ

20歳の時に家を出て、まず出流山(いずるさん)にある岩窟(現在の出流山満願寺奥の院)で3年間、千手観音を念じながら仏教修行に没頭。さらに大剣ヶ峰(だいけんがみね)(現在の鹿沼市にある横根山)で3年間修行したのち、下野薬師寺で授戒得度。正式に仏教の僧侶となり、勝道と名を改めました。765(天平神護元)年には、再び大剣ヶ峰の奥深くに籠って修行をし、その時の庵(跡は史跡「深山巴の宿(じんぜんともえのしゅく)」として、今も見ることができます。

勝道の日光開山ゆかりの地

勝道が修行した深山巴の宿は、前日光県立自然公園内にあります。勝道が最初に建てたとされる紫雲立寺(しうんりゅうじ、のちの四本龍寺)は日光山輪王寺がある山内に、男体山登頂後に建てた社殿(のちの二荒山神社中宮祠)と中禅寺は中禅寺湖畔に位置。男体山頂上には奥宮があります。

勝道が上人の称号を得るまで

767(神護景雲元)年、山岳地での厳しい仏教修行を続ける勝道は、観音信仰の霊場として知られた補陀落山(ふだらくさん)(現在の男体山(なんたいさん))を目指しますが、厳しい地形と悪天候に阻まれて失敗。14年後の781(天応元)年に2度目の登頂を目指しますがこれも挫折します。そして翌年、ようやく登頂を果たし、山頂に庵を結んで21日間滞在したといいます。784(延暦3)年の登山では中禅寺湖をめぐり、湖畔に神宮寺(のちの中禅寺)を建立して修行を続けました。こうした業績を聞いた桓武天皇は、勝道を上野(こうずけ)国分寺の講師(こうじ)に任じ、このときに「上人」の称号を与えたのではないかともいわれています。

勝道上人が残した多くの事績

その後も勝道の厳しい修行は続き、807(大同2)年には旱魃(かんばつ)で苦しむ東国の人々のために再び補陀落山頂へ登頂、雨ごいの修法を実施し、見事に雨を降らせ人々を救ったと伝えられています。それから10年後の817(弘仁8)年、自らが創建した日光山内の四本龍寺(しほんりゅうじ)で、83歳の生涯を終えます。以上のような勝道の事績については、同時代を生きた空海の漢詩文集『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』におさめられた、「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑幷序(しゃもんしょうどうさんすいをへてげんじゅをみがくのひならびにじょ)」に記されています。

円仁~下野国が生んだ有名な仏教僧②~

そしてもうひとり、勝道と並ぶ下野出身の高僧として名前を挙げられるのが、円仁(えんにん)です。円仁は、794(延暦13)年に下野国岩舟(現在の栃木市岩舟町)で生を受けます。幼くして父を失い、東国有数の仏教道場として栄えていた岩舟の大慈寺(だいじじ)に入ります。15歳になると師の広智(こうち)とともに天台宗の総本山である比叡山(ひえいざん)に登り、最澄の弟子となります。23歳の折りには最澄の弟子として東国巡錫(じゅんしゃく)に従い、故郷の下野に錦を飾ったといいます。

円仁は第3代延暦寺天台座主となる

822(弘仁13)年6月4日に最澄が亡くなったあとも、円仁は比叡山での修行生活を続けます。その声望と高い徳は、比叡山の僧侶たちの広く認めるところとなり、838(承和5)年には、遣唐使の一員に選ばれて唐へ渡ります。入唐からおよそ10年、天台宗の奥義を得た円仁は847(承和14)年に帰国し、7年後には第3代の延暦寺天台座主となります。この座主就任は、勅命による初めてのものでした。

円仁は死後、勅命によって「慈覚大師」の諡号が贈られる

円仁は864(貞観6)年、比叡山にて72年の生涯を閉じますが、2年後、勅命によって「慈覚大師(じかくだいし)」の諡号(しごう)が贈られます。勅命によって大師の号が贈られるのは円仁と師である最澄の伝教(でんぎょう)大師が初めてで、真言宗では空海が弘法大師の号を贈られています。こうした業績にあやかり、栃木県内には慈覚大師を中興の祖とする、数多くの寺院があります。

円仁ゆかりの地

円仁の生まれ故郷である栃木市岩舟町には、「慈覚大師円仁誕生の地」をはじめ、「慈覚大師御母公の墓」、円仁が最初に修行した大慈寺など、ゆかりの史跡が点在しています。

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