更新日: 2024年1月22日
下野薬師寺、勝道上人、慈覚大師円仁など下野国に花開いた仏教文化
下野薬師寺には戒壇院が設けられ、勝道、円仁などの高僧が活躍。奈良時代から平安時代にかけて、下野国は東国における仏教の中心地だったのです。
下野薬師寺とは
古墳時代の後期、6世紀半ば頃に日本に伝来した仏教は、国家鎮護のための宗教として普及し、朝廷の保護によって各地に寺院が建てられるようになりました。7世紀の終わり頃、現在の下野(しもつけ)市に位置する鬼怒川右岸の平野に、この地を治める豪族である下毛野(しもつけぬ)氏の氏寺として建てられたのが、下野薬師寺(しもつけやくしじ)です。この寺は奈良時代から平安初期にかけて、東日本で最も重要な寺院でした。なぜならばここには、当時、日本に3つしかない戒壇院(かいだんいん)が設置されていたからです。
戒壇院の重要性
戒壇院とは、仏教僧になるための戒律を授ける、正式な作法を執り行う場所のことです。当時、日本国内における仏教の宗教儀式は未整備であり、仏教で国を治めようという為政者にとっては、正式な仏教の作法や儀式に基づいて授戒作法を執り行う戒壇院の重要性は、計り知れないほど大きなものでした。
下野薬師寺は戒壇院によって東日本で最も重要な仏教寺院に
754(天平勝宝6)年、唐の鑑真(がんじん)が来朝し、正式な授戒作法を伝えました。これを受けて、まず奈良の東大寺に日本初の戒壇院が設置され、その5年後である761(天平宝字5)年に、九州・太宰府市の筑紫観世音寺(つくしかんぜおんじ)とともに下野薬師寺に戒壇院が設けられました。こうして日本三戒壇のひとつとなった下野薬師寺は、東国10か国すべての僧侶が授戒を受ける場所として、東日本において最も重要な仏教寺院となったのです。
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