目次
大野醤油の始まり
大野の醬油作りは、約400年前にさかのぼります。加賀藩2代前田利常が、大野の町人であった直江屋伊兵衛に命じ、醬油醸造法を学ばせたのが始まりです。のちに前田家は参勤交代を利用し、東海道五十三次の宿場で大野醬油の宣伝までしていたといいます。当初は近畿圏にしかなかった醬油醸造技術をいち早く取り入れ、五大産地にまで発展させたのだから、前田利常には先見の明があったと言わざるを得ないでしょう。
大野醤油はほど良い甘さの「うまくち醬油」
直江屋伊兵衛は、大野を代表する直源醬油の祖として知られます。彼が醬油醸造を学んだ地域については、紀州湯浅、野田、銚子などいくつかの説があります。しかし、大野醬油は関東の辛口とは異なり、甘口ですが九州ほどではないことから、紀州湯浅で醸造を学んだとの見方が有力です。
ほど良い甘さの大野醬油は、甘みに旨みを加えた「うまくち醬油」と呼ばれます。色も比較的に淡く、麺類や煮物、かけ醬油として使っても、自己主張しすぎません。素材そのものの味、香り、色を引き立たせる醬油は加賀藩の豊かな食文化のなかで愛され、加賀料理にも欠かせないものとなっていきました。
大野醬油は北前船で各地へ運ばれた!
大野醬油が栄えたのには、北前船の存在が大きく影響しました。鉄道や自動車が普及する前は、物資や人の移送は海運・水運に大きく頼っていました。特に北前船と呼ばれる廻船は、函館からは昆布やニシンを、日本海側の港町からは米・醬油を積み込み、各地へと運びました。大野も北前船の寄港地であったため、麦や大豆、能登の塩などの調達が容易で、それらの材料によって造られた大野醬油もまた北前船で各地へ運ばれていったのです。
北前船の西廻り航路と北陸の主な寄港地
船の寄港地は、日本海沿岸だけで大小100港以上あり、その母港(船主が住む港)の多くは北陸地方の港でした。西廻り航路を最初に試したのは前田利常。それまでは、敦賀で船荷を陸揚げし、陸路と琵琶湖を経て大津、京都、大阪へと運ぶのが日本海側からの物資輸送ルートでした。そこで前田利常は、米を下関、瀬戸内海を経由して大阪に廻送し、このルートの利便性を証明しました。
大野醬油を運んだ北前船の大海商・銭屋五兵衛
北前船の大海商といえば、銭屋五兵衛、通称「銭五」がよく知られます。39歳のときに海運業を始め、類まれなる才覚を発揮した人物です。
銭屋五兵衛は大野に隣接する金石(かないわ)(当時は宮腰)の出身で、そこが銭屋五兵衛の本拠地であったため、大野港も北前船の動きが活発となりました。大野の醬油醸造元のなかには、先祖は北前船の船主、あるいは海運業だったという家も少なくありません。銭屋五兵衛も海運業を営むかたわら、両替商、呉服商、質屋なども手がけ、加賀藩の経済において存在感を強めていきました。
あまりにも強大な財力をもってしまったために、最後には加賀藩の政争に巻き込まれて獄死しますが、海外交易の先駆者だと讃える声は多いです。金石にある石川県銭屋五兵衛記念館では、彼の功績や波乱に満ちた生涯を伝える資料が展示されています。
大野醬油誕生と発展の要因とは
北前船の活躍を除いても、大野は恵まれた土地です。白山とそこから流れる川が作った扇状地の扇端に位置し、古くから伏流水が湧き出ている場所だったからです。この清洌な地下水が、醬油醸造のための仕込み水として重宝されてきました。かつては、「ほんぬき」「もっくり」などと呼ばれた湧水が街道沿いにあったといわれます。
雨の多い湿潤な気候も、醬油の発酵における麹菌の育成に一役買っています。城下町としての食文化、北前船の発展、地の利。どれか1つでも欠けていれば、大野のうまくち醬油は誕生していなかったかもしれません。
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石川はなぜこんなに発酵食品が浸透している?
石川県は日本有数の発酵王国として知られます。塩漬けにしたブリを同じく塩漬けの蕪(かぶ)ではさんだ「かぶらずし」や、ナマコの腸を塩漬にした「このわた」、スルメイカと塩で作る珍味「イカの塩辛」などが石川県を代表する発酵食品です。醬油は醬油でも、魚醬の「いしる」も有名です。なぜ石川にはこれほど発酵文化が根付いているのでしょうか。
まずは気候的な理由があげられます。冬は寒く、雪が積もることも当たり前ですが、一定の低温で素材を保つことができるという、食品の発酵に適した環境であるといえます。さらに、地理的な理由があります。北陸は、昔から豊富な漁獲量を誇ってきました。時には消費が追い付かないほど大量に獲れるため、獲った魚をなんとか保存しておく必要があったのです。また、米の収穫も多かったため、発酵に使う麹や糠もなじみ深いものでした。塩田から塩を手に入れることも容易でした。
こうして古くから育まれてきた発酵食品には、恵まれた風土や北陸らしい気候が凝縮されています。そこに先人の知恵と経験が加わり、今日も貴重な食文化の財産として受け継がれています。
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