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岡山城は宇喜多秀家が基礎を築き、池田家が整備した

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

岡山城は宇喜多秀家が基礎を築き、池田家が整備した

宇喜多秀家(うきたひでいえ)によって築城された岡山城は、小早川秀秋(こばやかわひであき)を経て池田家へ引き継がれました。城下町の基礎を構築した秀家の足跡と、その後の発展を見てみましょう。

宇喜多秀家はわずか10歳で宇喜多家の当主となる

主家に仕える立場から備前国全域を治める戦国大名に成長した宇喜多直家(うきたなおいえ)は、西の毛利(もうり)と手を切り、東の織田に臣従した後に亡くなります。跡を継いで1582(天正10)年に宇喜多家の当主となったのが、10歳の嫡男・秀家です。

宇喜多秀家は秀吉から厚遇された

宇喜多勢は中国遠征の指揮をとっていた羽柴(はしば)(豊臣)秀吉の配下となり、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻めの最中に本能寺の変が発生します。宇喜多家は直家の晩年から織田に従っていますし、中国平定後の毛利を監視するためにも都合がよかったのです。直家が秀吉を通じて織田側に臣従したという事情もあり、秀吉はまだ幼い秀家を非常に厚遇します。個人的にも気に入っていたようで、1587(天正15)年ごろには自分の養女(前田利家(としいえ)とまつの間に生まれた豪姫(ごうひめ))を秀家に嫁がせ、豊臣秀家の名乗りを許すなど、身内同然の扱いをしています。

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