更新日: 2024年1月26日
備中松山城の歴史~現存12天守の一つはなぜ残った?~
日本三大山城に数えられ、天守が現存する唯一の山城である備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)。鎌倉時代に築城されてから今日までの、歴史を振り返ってみましょう。
目次
備中松山城の歴史①:戦国武将により争奪戦が繰り広げられた備中
備中は山陽と山陰を結ぶ、交通の要衝です。高梁川(たかはしがわ)を用いた河川交通も盛んで、物流拠点としても発展。戦国時代に、多くの武将がこの地を巡って争奪戦を繰り広げた結果、備中の大半は毛利輝元(てるもと)の所領となります。
備中松山は幕府の直轄地となる
関ヶ原の合戦で毛利氏が敗れた後、備前や美作(みまさか)には大名が入って藩が成立しますが、備中松山は幕府の直轄地となり国奉行の小堀(こぼり)氏が入ります。直轄地となった理由は定かではありませんが、当時毛利領の最東端であり織田領との狭間に当たる場所に、あえて空白地帯を設けたのかもしれません。
備中松山城は標高430mの山頂に位置
江戸時代、政庁は城に置かれることが多くありました。しかし備中松山城は、標高430mの臥牛山小松山(がぎゅうさんこまつやま)山頂に位置していました。もともとは1240(延応2)年に秋庭重信(あきばしげのぶ)が築いた砦で、毛利輝元が現在の城の形に整え始めたもの。城は戦のためのものであり、平時の政務は南山麓に位置する「御根小屋(おねごや)」で行っていました。 小堀氏は荒れ果てていた「御根小屋」を、政庁に相応しい形に改修。以後、政務は城ではなく御根小屋で行われるようになります。
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