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宇喜多直家は初陣ながらも武功を挙げる

成長した宇喜多直家は、15歳で浦上家に仕官。浦上宗景(むねかげ)に仕え、1544(天文13)年に初陣を飾ります。このときの武功によって乙子城(おとごじょう)を拝領しますが、この城は非常に危険な位置にありました。東は宗景と抗争中の浦上政宗(まさむね)の三石城(みついしじょう)、西は長らく浦上氏と敵対している松田氏の金川城(かながわじょう)、南は四国の細川氏や瀬戸内の海賊に囲まれ、まさに四面楚歌。若くて経験の浅い宇喜多直家には、守りきれないのではないかと思われました。しかし宇喜多直家は、この城を見事守りきります

宇喜多直家は浦上氏配下の有力武将として勢力を拡大

1551(天文20)年には備中亀山(びっちゅうかめやま)城の城主・中山備中守の娘と結婚。この頃から、宇喜多直家の「戦働き」が目立つようになります。1556(弘治2)年には祖父の居城であった砥石城を攻め落とし、1559(永禄2)年には謀反の疑いがあるとして舅の中山備中守を誅殺。祖父の仇である島村貫阿弥の居城・高取山(たかとりやま)城を落城させるなど、数多くの武功を上げることで、浦上氏配下の有力武将として勢力を拡大していきました。

宇喜多直家は浦上氏との主従関係が悪化し対立

最初はこの活躍を頼もしく思っていた浦上宗景でしたが、次第に宇喜多直家を疎ましく思うようになります。宇喜多直家が美作(みまさか)の三村氏を暗殺し、宿敵だった松田氏の金川城を落城させた1560年代(永禄年間)後半には、主従関係が悪化。1574(天正2)年には、ほぼ断交状態にまで陥ってしまいます。宇喜多直家の台頭に不満を抱いた浦上宗景は、織田信長と同盟を結んで劣勢挽回をはかりますが、宇喜多直家はこれを阻止。主君の居城である天神山城(てんじんやまじょう)を攻略して宗景を播磨(はりま)に追放し、備前と備中・美作の一部を支配する戦国大名に成長したのです。

宇喜多直家は毛利方に与するも、織田方の勢力は強まる一方

備前・美作は、毛利の領国と織田の領国に挟まれる位置にあります。両方と敵対することはできないため、宇喜多直家は毛利方に与することを選択。1578(天正6)年の上月城(こうづきじょう)の戦いでは毛利方として出陣しています。しかし1570年代(天正年間前半)において、毛利は負け戦が続いていました。領土の拡大により各地の武将を抑えられなくなっていたこと、織田方に寝返る武将が増えつつあったことも敗因でしょう。織田方の勢力は強まる一方だったため、「このまま毛利に従うか、織田に寝返るか」は、宇喜多家にとって大問題でした。

宇喜多直家は毛利を裏切り織田方に付く

そんな宇喜多直家に近づいたのが、羽柴(はしば)秀吉(後の豊臣秀吉)です。織田方としては、毛利への前進拠点となる備前はぜひ押さえておきたい場所。秀吉は主君である織田信長に無断で、直家に接触していたようです。宇喜多直家は悩み抜いた末、最終的に毛利を裏切って織田に付くという判断を下します。1579(天正7)年、宇喜多直家は織田家に降伏。正式に織田方の配下となりました。

宇喜多直家は織田軍の前線基地を治める武将となる

織田方に付いてからは、織田軍の最前線基地を治める武将として、備前・備中・美作の各地で毛利軍と戦を繰り返すことになります。宇喜多直家が亡くなった時期は明確ではありませんが、宇喜多軍が劣勢だった1581 (天正9) 年11 月~1582(天正10)年1月の間ではないかという説が有力です。織田方に付いてからは、常に毛利との戦いが継続しており、落ち着く暇はなかったのではないでしょうか。史料が少なく後年に創作された逸話が多いせいで「暗殺を好んだ謀略武将」という見方をされることが多いですが、没落していた宇喜多家を復興させ戦国大名にまで成長させた実力者なのです。

直家は備中・美作の一部と備前を手中に収めた。

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・その大きさは世界2位! 児島湖はなぜ造られたのか?
・「晴れの国岡山」は「天文王国おかやま」だった!
・笠岡市がカブトガニ有数の生息地になった理由

…などなど岡山のダイナミックな自然のポイントを解説。

Part.2 岡山を走る充実の交通網

・瀬戸大橋が鉄道と併用できた理由
・西日本唯一の臨海鉄道線「水島臨海鉄道」の変遷を知る
・わずか16年で廃線になった、幻の三蟠鉄道
・津山扇形機関車庫から見る、岡山県の鉄道の歴史
・山陽新幹線は岡山発が多い?交通の要所・岡山駅のスゴさ
・日本で最も短い路面電車が地元で愛される理由

…などなど岡山ならではの鉄道事情を網羅。

Part.3 岡山で動いた歴史の瞬間

・伝説の城「鬼ノ城」は古代日本の防衛ラインだった
・巨大古墳群からひもとく吉備国と大和朝廷の関係
・戦国大名・宇喜多直家は、邑久郡の小領主だった
・難攻不落の備中高松城を、血を流さずに攻め落とせ!
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・岡山藩藩主の憩いの場として築かれた大庭園・後楽園

…などなど、激動の岡山の歴史に興味を惹きつける。

Part.4 岡山で生まれた産業や文化

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・倉敷市が一大観光地に成長した理由
・刀工集団・長船派は、どのようにして生まれたのか

…などなど岡山の発展の歩みをたどる。

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