更新日: 2024年6月21日
宇喜多直家の人物像~邑久郡の小領主からのし上がった岡山の戦国大名~
毛利(もうり)VS織田の前線基地として、備前・備中は常に脅かされてきました。その地域を支配した戦国大名・宇喜多直家(うきたなおいえ)とは、どのような人物だったのでしょうか。
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宇喜多直家は居城を追われ落ち延びた
宇喜多氏の名前が史料に登場するのは、15世紀後半のことです。小領主が多く、小競り合いの絶えない不安定な状態だった備前(びぜん)国邑久郡(おくぐん)南部の小領主として、浦上(うらかみ)氏(備前の守護大名・赤松氏配下の武将)に仕えていたとされています。浦上氏の下で勢力を拡大し、宇喜多能家(よしいえ)(宇喜多直家の祖父といわれる人物)の代には、砥石城(といしじょう)を居城とする武将として名を馳せるようになります。しかし能家は島村貫阿弥(かんあみ)に居城を攻められ、1534(天文3)年に自害。宇喜多直家は母親と共に落ち延び、砥石城からほど近い笠加(かさか)村で幼少期を過ごすことになります。
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