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【日本のお城と武将⑨:埼玉県】忍城と石田三成
忍城(おしじょう)(行田市)は、室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられています。城は南北を荒川と利根川とに挟まれ、周囲には広大な湿地帯が広がっていました。
成田氏はこの湿地帯を、あえて埋め立てようとはしませんでした。陸地同士に橋を渡し、沼を堀のように生かしたのです。いわば自然堤防に守られた要害であり、まさに「攻めるに難く、守るに易い」堅城で、関東七名城のひとつに数えられました。
行田市郷土博物館に展示されている忍城周辺のジオラマ。忍城は北に利根川、南に荒川が流れる扇状地に立地。沼地や自然堤防を巧みに利用しています。浮き城や亀城とも呼ばれました。
忍城を築城したとされる成田氏
もともと成田氏は武蔵七党を祖にもつとされ、鎌倉時代には幕府の御家人になりました。鎌倉幕府の滅亡後は成田氏も没落しますが、やがて山内上杉氏の家臣として復権を果たし、上杉謙信に与(くみ)したり、相模の後北条氏に従ったりと、時世を見ながら巧妙に立ち回っていました。
そして、1590(天正18)年、後北条氏の家臣として、豊臣秀吉の「小田原征伐」を迎えることになります。
忍城は豊臣秀吉と後北条氏との戦いで攻め込まれるも無血開城
豊臣秀吉は、後北条氏の拠点である小田原城(神奈川県小田原市)を包囲すると同時に、さらに関東の後北条方に与する諸城に対しても包囲戦を展開しました。圧倒的な戦力があればこその作戦であり、このとき忍城包囲の指揮を執ったのが石田三成でした。
忍城の兵員は、近隣の住民を合わせても3千程度であったのに対し、石田三成率いる包囲軍は2〜5万ともいわれています。
丸墓山(まるはかやま)(丸墓山古墳)の頂上から忍城周辺の地形を確認した石田三成は水攻めを企図し、まず総延長が28㎞にもおよぶ長大な堤防(石田堤(いしだつつみ))を完成させました。工事に要した期間はわずか1週間だったといわれています。次に、利根川と荒川の水を引き入れ、堤防に囲まれた忍城を水没させようとしました。このときの忍城は、まるで水面に浮いているかのようであったため、「浮き城」と呼ばれるようになりました。
ところが、かねてからの豪雨で堤防が決壊し、かえって豊臣軍のほうに甚大な被害が出てしまいました。結局、三成が手をこまねいているあいだに後北条氏が秀吉に降伏し、忍城は陥落することなく無血開城することになりました。
この忍城の戦いは和田竜の小説『のぼうの城』(2012年に映画化)の題材にもなっており、今日でも多くの人の知るところでしょう。
忍城はおよそ400年にわたって存続した
小田原征伐後、徳川家康が関東に入府すると、忍城は徳川氏の支配を受けます。江戸幕府が開かれて以降、忍城は忍藩の藩庁として、あるいは譜代大名の居城として利用されながら幕末を迎えます。
1871(明治4)年に廃藩置県と同時に廃城となるまで、およそ400年も存続したのは、まさに「関東の七名城」に数えるにふさわしい来歴といえます。
現在、行田市の忍城址公園には、かつてこの地に存在した忍城の御三階櫓(ごさんかいやぐら)が復元されています。
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【日本のお城と武将⑩:東京都】八王子城と北条氏照
織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉。全国統一のため関東の支配者・北条の小田原城に進軍します。その北条のもうひとつの砦が八王子城でした。
天正13(1585)年、羽柴秀吉は関白となり、翌年には太政大臣となり豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となりました。天正15(1587)年には九州を平定、全国統一のために残されたのは小田原城の北条だけでした。
小田原北条は鎌倉時代の北条と関係はなく、明応2(1493)年に伊豆を占領したのが伊勢盛時(北条早雲を名乗る)で、鎌倉幕府の北条にあやかり北条姓を名乗りました。鎌倉幕府の北条と区別するため後北条と称されます。2代目・氏綱の時代になると領土を拡張し、4代目・氏政の時代には、関東のほぼ全域を制圧します。
居城は関東全体から見ると西端に位置する小田原城。3代目・氏康の三男として生まれた氏照(うじてる)は軍事部門で大いに活躍し、それまで大石氏が城主だった八王子の滝山城を居城としました。
北条は大永4(1524)年江戸城に入り、続いて天文7(1538)年には下総国国府台にも進出し、関八州といわれた関東地区を制しました。
北条氏照が築いた八王子城
しかし永禄12(1569)年、武田信玄が大軍を率いて北条領に攻め込みました。北条氏照の居城だった滝山城は包囲され、落城寸前でしたが、武田軍は撤退。これを機に、北条氏照は標高約 170mの低い山に築かれた滝山城に見切りをつけ、標高約445mの山城・八王子城を築きました。
関東屈指の山城といわれた八王子城は複雑な山の地形を利用した戦闘重視の城です。麓から山頂の本丸にいたるには、垂直の土壁である土塁、屋根を平に削り取って作った陣地・曲輪、侵入者が渡る前にすぐに取り壊せる曳橋、高くそびえる石垣など、少人数でも守ることが可能な、難攻不落の城といわれました。
八王子城は小田原よりは東にあり、関八州を見渡すことができたといわれています。
北条氏照らの降伏と八王子城の落城
秀吉は全国統一のため小田原城に迫るところに拠点を置いて持久戦に持ち込み、本営のために天守閣まで備えた城郭をつくりました。一方、北条氏照ら要人は精鋭を率いて小田原城に入って、戦闘態勢を整えていました。
ところが、天正18(1590)年6月、秀吉は小田原城の北条への見せしめとして、八王子城に上杉景勝と前田利家を向かわせ、全滅を命じました。人数は1万5000人に対して、城には3000人ほどがいたといいますが、農民、職人、山伏を中心とする留守部隊でした。
秀吉の命を受け、上杉景勝と前田利家は朝霧にまぎれて急襲し、半日で陥落させました。北条方の戦死者は1000人を超えたといわれ、戦国時代の戦闘としても惨烈な戦いのひとつといわれています。滝に身を投げる者もおり、滝の水は3日3晩赤く染まったといわれるほどでした。
この敗戦により同年7月、北条氏照は氏政とともに降伏、秀吉に切腹を命じられ、後北条氏は滅亡しました。秀吉はここに、天下統一をなし遂げ、戦国時代が終わりました。
【日本のお城と武将⑪:兵庫県】竹田城と赤松広秀
標高353.7mの古城山山頂にある竹田城跡。そこは但馬と播磨の国境に位置する要衝でした。
竹田城は1443年ころ、当時の但馬守護の山名持豊(宗全)が配下の太田垣光景(おおたがきみつかげ)に命じて築かせたのがはじまりです。
古城山(こじょうざん)は、但馬と播磨の国境に位置する要衝であったために選ばれました。
当時、山名氏は播磨守護赤松氏との間で戦が頻発していました。そこで赤松軍の侵攻を監視できる山城を築きます。ただし当初の城は土塁で守られていました。今に残る総石垣造の城に改修したのは、最後の城主となった赤松広秀(ひろひで)です。
石垣群は南北400m、東西100mにおよび、本丸の石垣の高さは10.6mもあります。重機のない時代に大量の石を山頂まで運び上げることができたのは、山頂の至るところにある石取り場から滑車(かっしゃ)を使って人力で石を引っ張り上げたからです。
竹田城の城主は太田垣氏から豊臣秀長ののち赤松広秀に
竹田城は、山名氏の重臣である太田垣氏が6代にわたって城主を務めました。1540年ころには、竹田城から約15kmの距離にある生野銀山での採鉱(さいこう)が本格化し、山名氏が銀山を支配しました。そこで竹田城は生野銀山を管理する役割も担うことになります。
毛利軍が出雲や伯耆に進軍し、但馬へ迫りました。すると太田垣氏は毛利軍に降伏します。その後、丹波の豪族で「赤鬼」と呼ばれた赤井直正に竹田城を占拠された際には、明智光秀の丹波制圧に加わり城を奪取します。ところが、太田垣氏は毛利軍と和睦し、信長勢に対抗したのでした。
怒った信長は秀吉に但馬攻めを命じ、秀吉の実弟・秀長(ひでなが)が侵攻してきます。太田垣氏はまたしても降伏し、秀吉は秀長を竹田城主に据えました。秀吉の狙いは、但馬制圧と生野銀山の支配にありました。その秀吉の死後、播磨龍野城主の赤松広秀が竹田城主となります。
竹田城最後の城主の自決後は廃城に
赤松広秀は関ケ原の戦いで西軍につき、東軍の丹後田辺城を攻めました。ところが、西軍の敗戦を知ると東軍に寝返り、今度は西軍の鳥取城を攻めます。このとき、城下町への焼き討ちにより鳥取城を落城させたものの、「自分が命じていない焼き討ちを決行した」として家康の不興(ふきょう)を買い、赤松広秀は切腹を命じられました。
こうして城主を失った竹田城は石垣のみを残して廃城となり、以降、竹田城が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。
竹田城は城主を持つことなく観光地へ
竹田城跡が脚光をあびるきっかけは、1990年に公開された角川映画『天と地と』のロケ地に選ばれたことです。その後も2003年公開の『魔界転生(まかいてんしょう)』や、2012年公開の高倉健主演映画『あなたへ』のロケ地にも選ばれました。
また、2006年には「日本100名城」に選定されました。こうして知名度が上がり、観光客数も一気に伸びました。高所に見事に築かれた石垣の壮観さから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれて人気を博しています。
周囲は山に囲まれ、比較的低い場所を播但線が走っています。雲海に浮かぶ竹田城が見られるのは、城の南東にある朝来山の立雲峡です。
竹田城跡
- 住所
- 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169
- 交通
- JR播但線竹田駅から全但バス「天空バス」竹田城跡行き(12~翌2月運休)で20分、竹田城跡下車、徒歩20分
- 料金
- 見学料=大人(高校生以上)500円、中学生以下無料/年間パスポート=1000円/(20名以上の団体は1割引、障がい者手帳持参で本人と同伴者無料)
【日本のお城と武将⑫:静岡県】田中城と武田信玄
静岡県藤枝市田中の住宅街を上空から眺めると、四重の同心円のような形をした街並みが確認できます。これは、今から約150年前まで存在した、日本に1つしかない「円郭(えんかく)式」の縄張をした「田中城」の名残です。
田中城は、直径約600mの4つの曲輪(くるわ)(区画)が同心円状に配置され、6つの三日月堀(馬出曲輪)が虎口に造られていました。三の丸は土塁の4か所が外に向かって突出しており、この形状が亀に似ていることから、別名「亀城」「亀甲城」とも呼ばれていました。
この田中城の歴史は、16世紀、土豪・一色(いっしき)氏が今川氏の命を受け徳一色城(とくのいっしきじょう)を築城したことに端を発するとされ、田中城の築城当初は、西の遠州の国人衆への備えとして築かれたといわれています。
その後、1568(永禄11)年に武田信玄が駿河侵攻を開始すると、田中城は駿河西部の城砦 網の要として重要視されるようになっていきます。
田中城の築城法の特徴
570(永禄13)年、徳一色城は武田信玄によって攻略され、城の縄張りは馬場信房(ばばのぶふさ)が担当。この武田家時代に田中城の戦闘的機能が整えられたと考えられます。
馬出曲輪が6か所設けられたのは武田流の築城法の一つです。
本丸には天守閣はなく、二階の本丸櫓がありました。これは、戦の備えではなく、月見など風流を楽しむ際に使用した建物だったとされています。
田中城の落城
1582(天正10)年、長年にわたる徳川家康の攻撃を受け田中城は落城。藩政時代には志太地区で唯一の藩である田中藩の政庁となりました。
その後、大政奉還により、志太地区は静岡藩の領地となったため、田中藩は安房国長尾藩へ転封(大名の領地をほかに移すこと)となり、藩主と家臣一同は新しい領地へ移っていきました。
1871(明治4)年の廃藩置県により、田中城もその役割を終えたのです。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
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