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【佐世保の戦争遺構①】旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設
大正7(1918)年から同11(1922)年にかけて建造された「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」もそのひとつ。日露戦争後、無線通信の重要性を確信した日本軍が莫大な費用を費やして建造した千葉(船橋)、台湾(高雄)に次ぐ3か所目の無線局で、日本軍が太平洋戦争の開戦を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号を送ったとされる話は有名です。ただし残念ながら、このことを証明する資料は確認されていません。
敷地内にある3基の無線塔は高さ136mの鉄筋コンクリート造。1辺300mの正三角形に1基ずつ配置されていて、その中央に半地下の電信室が建ちます。無線塔と送信局舎の両方が現存しているのは、国内でこの「旧佐世保無線電信所」のみ。一部施設は「針尾無線塔保存会」が管理しており、見学することができます。
【佐世保の戦争遺構②】砲台跡
佐世保周辺には、砲台跡も数多く残っています。西彼杵半島北部に位置する「石原岳砲台跡」は、明治32(1899)年に佐世保軍港防衛のために築かれたもの。築造当時の砲台や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)などが完璧な状態で残っているのは、極めて珍しいです。一帯は現在「石原岳森林公園」として整備されています。
西彼杵半島とは佐世保湾を挟んで対岸にあたる俵ヶ浦半島にも多くの砲台が築かれました。そのなかで最大級の砲台、24㎝カノン砲と28㎝榴弾砲をそれぞれ4門搭載していたのが「丸出山観測所跡」。現在は、「小首」「高後崎」の2か所の砲台跡とともに尾根沿いのハイキングコースに組み込まれています。
【佐世保の戦争遺構③】片島魚雷発射試験場跡
大村湾に突き出した緑豊かな半島、片島にも廃墟となった軍事関連遺構が残ります。大正7(1918)年築の「片島魚雷発射試験場跡」がそれです。佐世保海軍工廠や三菱長崎製作所(現・長崎造船所)で製造した魚雷の発射試験のための施設で、コンクリート造の発射場、レンガ造の発射場塔などが残存しています。
【佐世保の戦争遺構④】無窮洞
太平洋戦争中、我慢を強いられ、恐怖に耐えていた子どもたちに思いを馳せる施設として「無窮洞(むきゅうどう)」を取り上げます。ここは旧宮村国民学校の児童たちが自分たちの手で掘った防空壕。小学校4年生以上の男子がツルハシ、女子がノミで仕上げたもので、避難中も授業や生活ができるよう、教室やトイレ、炊事場まで備えていました。現在、「無窮洞顕彰保存会」が管理し、公開しています。
【長崎の戦争遺構①】原爆の爪痕
人類最後の被爆地として歴史上にその名が刻まれる長崎市にも、今なお原子爆弾の脅威をリアルに実感させられる戦争遺構が市内各所に点在しています。
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃を機に、日本は太平洋戦争に突入。最初こそ、東南アジアや南太平洋の島々を次々と支配下に入れ、日本軍の優勢が伝えられましたが、昭和17(1942)年のミッドウェー海戦以降、形勢逆転。昭和19(1944)年には米軍による空襲が頻発するようになりました。
戦艦「武蔵」を造った三菱重工長崎造船所を擁し、軍需産業都市として知られた長崎は当然その標的とされ、5度の空襲に見舞われます。
そして6度目となる最後の空襲が、昭和20(1945)年8月9日に投下された原子爆弾でした。B29爆撃機「ボックスカー号」から投下されたプラトニウム原爆(通称ファットマン)は、松山町の上空約500mで炸裂。史上最悪の大量破壊兵器は長崎市北部全域を一瞬にして焦土と化し、人口約24万人のうち約7万4000人が死亡、約7万5000人が負傷しました。
【長崎の戦争遺構②】浦上天主堂
終戦まもなく長崎では原爆の遺構と関連資料の保存を求める声が高まりましたが、ひとつ惜しまれるのは猛烈な爆風によって倒壊した「浦上天主堂」の遺構でしょう。
これについては市議会ほか市民、信者を巻き込んだ侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が交わされましたが、結果、一日も早い教会堂の再建を望む教会の意向が尊重され一部を残して取り壊しが決定。
現在、天主堂の双塔にあった左側の鐘楼ドームは、爆風で北側崖下に落下したまま現存しており、頭部だけが残った「被爆のマリア像」、熱線でゆがんだ聖器などの被災資料は天主堂が所蔵、一般公開しています。
長崎の爆心地周辺の原爆遺跡
「爆心地」「旧城山国民学校校舎」「浦上天主堂旧鐘楼」「旧長崎医科大学門柱」「山王神社二の鳥居」の計5か所は、2016年10月に「長崎原爆遺跡」の名称で国の史跡に指定されました。近隣には、その他の原爆遺構や「長崎原爆資料館」などの施設が集中して建ちます。
【長崎の原爆遺跡①】原爆落下中心地
原爆の爆発点である地上約500m、その真下にあたる長崎市松山町171番地を示します。爆発直後の地表の温度は約3000~4000度に達したと推定されます。
周辺は「爆心地公園」として整備されていて、中央に昭和43(1968)年に建立した黒い御影石の原爆落下中心地碑が建ちます。
【長崎の原爆遺跡②】旧城山国民学校校舎
爆心地の西約500mに位置。丸窓を設けた鉄筋コンクリート造のモダンな校舎でした。当日は疎開していた三菱の職員、動員学徒、教員など152人が学校に来ており、うち132人が死亡。
現在、北側校舎の階段棟が現存。「城山小学校平和記念館」として原爆資料を展示しています。
【長崎の原爆遺跡③】旧長崎医科大学門柱
長崎医科大学では教職員、学生合わせて890余人の死者を出し、大多数の建造物が倒壊、焼失。遺構として残った1.2m四方、高さ1.8mの石造りの正門門柱は、左側が9㎝前にずれ、台座との間に最大16㎝の隙間ができています。このずれが原爆の圧力を測定する基礎となりました。
【長崎の原爆遺跡④】山王神社の二の鳥居(山王神社の片足鳥居)
原爆により社務所、拝殿、代々継承される由来書や宝物まで、神社のあらゆるものが倒壊、焼失しました。唯一残ったのが4か所あった鳥居のうちの二の鳥居。強烈な爆風を受けたことにより笠木と貫の一部を残した南側の柱のみの姿になりました。別名「片足鳥居」。
【長崎の原爆遺跡⑤】三菱兵器住吉トンネル工場跡
太平洋戦争末期に造られた三菱兵器製作所の疎開工場。高さ約3m、幅4.5m、全長300mの6本のトンネルで、原爆投下の日は魚雷部品の製造に約1800人、トンネル掘削に約800~1000人が従事しており、その多くが被爆しました。
現在2本のトンネルを見学することができます。
【長崎の原爆遺跡⑥】旧長崎刑務所浦上刑務支所
爆心地の北250m、爆心地からもっとも近い公共施設でした。敷地面積約2万㎡、九州管内で死刑が確定した囚人は、みんなこの支所に送られ刑の執行を待ちました。
現在、年間約200万人が訪れる平和公園の外周部に、コンクリートの外塀と建物の基礎部分の遺構が保存されています。
長崎原爆資料館
- 住所
- 長崎県長崎市平野町7-8
- 交通
- JR長崎駅から長崎電気軌道1・3号系統赤迫行きで12分、原爆資料館下車、徒歩5分
- 料金
- 大人200円、小・中・高校生100円(15名以上の団体の場合大人160円小・中・高校生80円)(高齢者は健康手帳、障がい者は各種障がい者手帳持参で入館無料)
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