更新日: 2024年1月26日
対馬の金田城は天然の要塞だった!~国防の最前線として築かれた古代の名城~
6世紀から7世紀にかけて、東アジアの勢力争いで中国を統一した唐は朝鮮半島に進出。
白村江(はくすきのえ)で大敗した倭国は、唐の進出に備えて対馬に金田城(かねだじょう)を築きました。
対馬に金田城が築かれた背景
7世紀半ば、中国を統一した唐はさらに勢いを増して朝鮮半島に進出し、高句麗を制覇。さらに、唐・新羅の連合軍は百済(くだら)を滅ぼしました。
斉明6(660)年、倭国(日本)は百済の援助要請を受け、天智2(663)年に援軍を送り、百済の白村江で唐・新羅と激突します。しかし、戦いはわずか10日あまりで決着がつき、倭国は軍船400隻を失う大敗となりました。
これを機に倭国は国防を強化。唐が侵入してくることを警戒して、朝鮮半島にもっとも近い対馬を最前線の防衛基地としました。天智3(664)年、大和朝廷は対馬・壱岐・九州北部に防人(さきもり)と烽(とぶひ)(敵襲を知らせるための狼(のろし)煙台)を配備し、西日本各地に次々と山城を築きました。
そのひとつが、対馬・浅茅(あそう)湾を臨む山上に築かれた金田城(古称・かなたのき)です。
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