更新日: 2024年1月13日
長篠・設楽原の戦い~設楽へおびき出され織田鉄砲隊の前に壊滅した武田軍
織田信長の時代
群雄割拠のなか、尾張に織田信長が登場し、前時代の有力大名・今川義元を討ち取ります。群雄が領土争いに明け暮れるなか、天下統一を見据えた信長は、上洛を目指した戦略をもとに美濃・伊勢を攻略していく。ここに天下統一へ向けた戦いが始まります!
鉄砲戦術で名高い「長篠・設楽原の戦い」は、後世のフィクションでした。信長発案の奇襲作戦が勝利の鍵となります。
長篠・設楽原の戦い~鉄砲戦術で名高い戦いは、後世のフィクションだった
天正3年(1575)5月、武田勝頼は、父・信玄の死後、徳川家康によって奪われた長篠城を奪還するべく、約1万5000の兵を率いて出陣し、城を包囲します。対する家康は、織田信長に援軍を依頼し、総勢3万8000の大軍で武田軍と三河国設楽原で対峙しました。
5月21日に行なわれた決戦では、武田軍の騎馬隊による突撃を、馬防柵(ばぼうさく)を築いてこれを待ち受ける、徳川・織田連合軍が、鉄砲の一斉射撃によって粉砕したと伝わります。
このとき信長が駆使した戦術は、3000挺の鉄砲を1000挺ずつ3列に配置して、順番に間断なく射撃を繰り返す戦法だったとされます。しかし近年、この戦法には無理があることが指摘され、江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が『信長記(しんちょうき)』のなかで語ったフィクションだという説も出ています。
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