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武田勝頼の戦略地図~武田家最大版図を築くも一貫性を欠く外交で滅亡へ

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

武田勝頼の戦略地図~武田家最大版図を築くも一貫性を欠く外交で滅亡へ

武田勝頼は、偉大過ぎる父の跡を継ぐも長篠・設楽原で大敗を喫します。選択を誤り続けて家臣、一族に離反され滅亡の憂き目を見ました。

武田勝頼の戦略地図~偉大過ぎる父の跡を継ぐも長篠・設楽原で大敗

武田信玄の死後、諏訪頼重(すわよりしげ)の娘を母とする4男勝頼が跡を継ぎます。しかし数年前に急遽後継ぎになったためか、家中の信頼は薄く、信玄も3年間自分の死を隠すよう、遺言しています。しかも、〝風林火山〟の旗も使ってはいけないとまで制約されていました。武田勝頼はそうした不安を払拭(ふっしょく)すべく信玄の織田・徳川強硬路線を継承し、徳川方の高天神城(たかてんじんじょう)を落として、武田の最大版図を築き上げます。ところが信玄の死後から2年後の天正3年(1575)、長篠・設楽原(したらがはら)の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田氏の運命は暗転します。山県昌景(やまがたまさかげ)馬場信房(ばばのぶふさ)など多くの宿老を失い、戦力、求心力ともに低下させていきました。

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