石山合戦~本願寺が信長に決起し石山合戦が勃発!
元亀元年(1570)9月、織田信長が三好三人衆の鎮圧軍を派遣すると、本願寺の法主(ほっす)・顕如は義昭の誘いに応じ、反信長に舵(かじ)を切ります。全国の門徒に檄(げき)を飛ばし、伊勢長島(いせながしま)や加賀で一向一揆が反信長に挙兵しました。
こうして約11年に及ぶ石山合戦が始まりました。
和睦を経ながら戦いが断続的に続き、信長自らも戦いを指揮しています。天正4年(1576)の天王寺(てんのうじ)の戦いでは、摂津三津寺砦(せっつみつでらとりで)を攻撃した原田直政(はらだなおまさ)、明智光秀が大敗し、直政が戦死して光秀が天王寺砦に追い込まれた際、信長自ら後詰となって天王寺砦に急行し、本願寺勢力を撃退し、挽回しています。
石山合戦~信長が毛利水軍を撃破し本願寺への補給路を遮断
この後、顕如は城塞化した本願寺で籠城戦に入り、戦いは長引きました。本願寺へは毛利水軍が兵糧(ひょうろう)を運び込んでいたため、これを絶つべく信長は水上戦を仕掛けましたが、大敗を喫してしまいます。そこで、信長は九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて鉄張りの船、いわゆる鉄甲船(てっこうせん)を建造し、毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破っています。その一方で、粘り強く各地の一向一揆を撃破して本願寺を孤立させていきました。
伊勢長島において一揆勢2万人を皆殺しにしたのはこのときのことです。
かくして天正8年(1580)、正親町(おおぎまち)天皇の仲介で、和睦(わぼく)が結ばれ、石山合戦は終結しました。
戦国の豆知識:石山合戦
本願寺の要請に応じて兵糧を送ることを決めた毛利輝元は、武田勝頼や上杉謙信らに手紙を送り、信長の背後を襲わせようと画策していました。さらに、西国の河野・宗像・龍造寺・島津などの諸大名にも加勢を求めています。
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『地図でスッと頭に入る戦国時代』見どころ
【〝北条早雲〟の伊豆制圧―1493年】
地図:北条早雲の台頭を許した関東の情勢(北条早雲の関東進出の戦略がわかる)
【鉄砲伝来―1543年】
地図:火縄銃の波及(種子島に伝来した新兵器が多方面に広まっていく様がわかる)
【三好政権―1549年】
地図:三好政権の支配地(信長以前の畿内を支配した政権のしくみと失敗の構造がわかる)
【キリスト教伝来―1549年】
地図:イエズス会の布教体制(教区)(カトリックの布教体制とキリシタン大名の関係がわかる)
【桶狭間の戦い―1560年】
地図:合戦後の東海情勢(義元没後に起こった今川家崩壊の過程がわかる)
【第4回川中島の戦い―1561年】
地図:疑問だらけの大会戦(川中島の戦いに関する通説のウソがわかる)
【堺の降伏―1569年】
地図:堺の硝石と金(信長が畿内進出後真っ先に堺を押さえた理由がわかる)
【長篠の戦い―1575年】
地図:長篠の戦い戦況図(武田軍を鉄砲の前へ誘き寄せた信長の高度な戦術がわかる)
【大坂の夏の陣―1615年】
地図:徳川軍の進軍経路と大坂の陣(なぜ大坂城の南側が戦場となったのか?がわかる)
『地図でスッと頭に入る戦国時代』監修者
小和田哲男(おわだてつお)
1944年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。現在、
静岡大学名誉教授。(公益財団法人)日本城郭協会理事長。専門は日本中世史。著書に
『家訓で読む戦国 組織論から人生哲学まで』(NHK 出版)、『戦国武将の生き方死に
ざま』(新人物往来社)、『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉』(ミネルヴァ書房)
など多数。
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