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宇品港開港で広島が首都となった日清戦争時代

宇品港築港から5年後の1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発します。開戦にあたって東京に大本営(陸軍と海軍を支配下に置く、最高統帥機関)が置かれたのですが、戦地は中国大陸。東京から中国大陸に向けて指示を出すのは、いささか距離がありすぎました。

開戦から数日後には「補給拠点と司令部は、前線に近い方が良いのではないか」という意見が持ち上がり、大本営の移転先探しが始まりました。

移転先の条件は「できるだけ戦地から近いこと」「兵員を戦地に送るための港があること」「兵員を港まで移送するための鉄道網があること」の三つ。これを満たしていたのが、広島市でした。山陽鉄道の糸崎-広島間は日清戦争勃発の2カ月前に開通していたため、青森から広島まで鉄道で兵士を輸送することができたのです。

広島県が一時的に日本の首都に

1894(明治27)年9月13日に大本営が宮中より広島に移転し、その2日後には明治天皇も広島入り。これにより、広島県が一時的に「日本の首都」となったのです。

第7回帝国議会は広島で召集され、総理大臣をはじめとした政府官僚も広島に集結。大陸侵攻の軍事基地に指定された宇品港には、全国から兵士が送り込まれました。人が集まれば、当然経済も動きます。軍事物資の調達や輸送も担うこととなった広島市は、軍需景気に沸きました

宇品港周辺が広島市内軍需産業拠点となる

1895(明治28)年4月21日の日清戦争終結により広島の大本営は解散されましたが、広島市内には次々と陸軍施設が整備されました

1897(明治30)年、宇品海岸通りに糧秣(りょうまつ)品の調達・製造・貯蔵・補給を担当する陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)宇品支部を設置。同年、基町に武器弾薬の集積補給を担当する大阪砲兵工廠広島派出所を置きました。

1905(明治38)年には出汐(でしお)に軍服や軍靴を製造する陸軍被服支廠を設置。その後、大阪砲兵工廠広島派出所が支廠に格上げされ霞町に移転したことから、宇品周辺は広島市内軍需産業拠点となりました。

広島に原爆が投下されるまで

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月、アメリカは日本への原爆投下目標都市の検討を始めました。投下目標を「直径3マイル(約4.8km)以上の市街地」を持つなどの条件から、国内17地域を選定。この17地域の中に、横浜・名古屋・大阪・京都・神戸・広島・小倉などの都市が含まれていました。

その後、爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で投下目標の選定は進み、アメリカ軍は原爆の投下まで町並みを残すため、投下目標都市への空襲を禁止しました。

広島に原爆投下目標が絞られる

7月25日に投下候補地が広島・小倉・新潟・長崎に絞られ、8月2日には広島を第1目標とする命令を下しました。広島が第1目標となったのは、周囲を山に囲まれた三角州に市街地が広がっているという地形的条件と、広島に連合国軍の捕虜収容所がないとされていたためとされます。

原爆は投下目標を目視確認して投下することとなっていました。このためには「投下目標を目視確認できる天候」が必要となります。アメリカ軍は広島の晴天確率なども調べ、原爆投下直前の7月まで、何度も広島市上空に偵察機を飛ばして空中撮影を行っています。投下目標として選ばれたのが、市の中心部にあった、T字型の相生(あいおい)橋でした。

広島に原爆が投下され一瞬で町が消滅

当時、広島市の居住者は約30万人。通勤・通学者や軍人を含めると、推計35万人が広島市内で活動していたとされます。

1945(昭和20)年8月6日、相生橋を目標に原爆が投下されました(実際には少しずれた、島病院の上で爆発)。爆心地の直下には、広島市内有数の繁華街が広がっていました。

中島本町は商店や飲食店が立ち並ぶにぎやかな町で、当時としては珍しい常設の映画館もありました。また材木町には材木を商う店があり、下町情緒の残る場所でした。天神町には公設市場もあり、元安川沿いには病院も多くありました。広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)は、博物館や美術館を兼ねたモダンな建物で、被爆当時は国や県の機関、木材統制機関などの事務所として利用されていました。

これらの町は、原爆投下により一瞬で消滅。水主(かこ)町(現在の加古町)にあった県庁と、国泰寺にあった広島市役所が直撃を受けて行政機能が停止したため、宇品(爆心地から約4km)に駐屯していて壊滅を免れた陸軍船舶部隊(通称、暁部隊)が救助活動や警備活動の指揮をとりました

広島の戦災復興と原爆ドーム

被爆の傷が癒えぬまま終戦を迎えた広島市は、戦災復興を急ぎました。

当時の広島市長が「被爆都市広島の復興は、国家的な意義を持つ」と国に訴え、1949(昭和24)年に「広島平和記念都市建設法」が可決。爆心地周辺を「平和記念公園」として整備することが決まりました

国有地の無償提供や国からの資金援助、世界からの支援もあり、1955(昭和30)年に広島平和記念資料館、1965(昭和40)年に平和大通り(通称、100m道路)が完成しました。

原爆ドームについては「悲惨な思い出につながるので取り壊して欲しい」という意見と、「原爆の惨禍を後世に伝えるために、そのまま保存すべき」という意見がありましたが、昭和30年代ごろから保存を求める声が高まり、1967(昭和42)年に保存工事を実施。平成に入ってからも、3回の保存工事が行われています。

広島の戦災復興と原爆ドーム

原爆ドーム

原爆ドーム

住所
広島県広島市中区大手町1丁目10平和記念公園内
交通
JR広島駅から広島電鉄広電宮島口行きで16分、原爆ドーム前下車すぐ
料金
情報なし

原爆による広島の被爆体験を語り継ぐ

戦後75年を過ぎ、被爆地広島でも当時の記憶は薄れつつあります。今後は被爆体験を直接聞くことが難しくなるという事情もあり、平和記念資料館では被爆者一人一人に焦点を当てた展示を実施。「人の姿を伝える」をコンセプトに、当時の状況を考えることができる内容となっています。亡くなった人や家族の思いを知ることで、当時の状況をより「自分のこと」として捉えてもらえるよう工夫しています。

1994(平成6)年に開館した東館では、世界情勢を踏まえた核兵器の状況などを解説。「遠い昔のこと」ではなく、「今を生きる自分たちのこと」として、今なお続く核の脅威を伝えています。

原爆による広島の被爆体験を語り継ぐ

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

住所
広島県広島市中区中島町1-2
交通
JR広島駅から広島電鉄広電宮島口行きで16分、原爆ドーム前下車、徒歩10分
料金
常設展示=大人200円、高校生100円、中学生以下無料/音声ガイド=1台400円(30台以上の団体使用の場合、1台350円)/一筆箋=300円~/(30名以上の団体は大人160円、20名以上の団体は高校生無料、障がい者手帳等持参で無料、65歳以上は証明書持参で100円)
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