更新日: 2024年1月26日
福山城の役割とは?~水野勝成によって一国一城令後に築城された城~
国内で最後に築城されたといわれる、福山城。
福島正則に代わって藩主となった水野勝成は、どのように福山城下町を整備したのでしょうか?
福山城が築かれるまで
関ヶ原の合戦後、安芸と備後は福島正則の所領となりましたが、彼は広島城の無許可修復を幕府からとがめられ移封されてしまいます。
代わって安芸40万石を治めることとなったのが浅野長晟(ながあきら)、備後10万国を治めることとなったのが、水野勝成(かつなり)です。
1619(元和5)年に福山に入った水野勝成は、まず居城を築く場所を探しました。当時は港町である鞆(とも)が海路、山陽道沿いの宿場町である神辺(かんなべ)が陸路の中心でしたが、鞆は山陽道から遠く、神辺は海から遠いところでした。そこで、神辺と鞆の中間地点に当たる、福山に城を築くことにしました。
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