トップ > カルチャー >  中国 > 広島県 >

広島城築城時に着目した三角州

そこで着目したのが、海上交通の便に優れた太田川河口の三角州地域です。当時の物流は、海上交通がメインでした。陸上輸送では運ぶことができる物量が限られるため、大量の物品を一度に運ぶには船、つまり海上交通が最適だったのです。

当時海上交通の拠点となっていたのは、宮島です。太田川河口のデルタは宮島と近く、川を使えば内陸部への大量輸送も可能です。

「土地が小さい」「地盤が弱い」「水害に弱い」というデメリットより、「海に開けており、大量輸送が可能」というメリットの方が大きかったのです。

広島城築城時に着目した三角州

広島城の築城と城郭の規模

1589(天正17)年、元就の孫・毛利輝元(てるもと)は広島城の建築を開始します。選んだのは、「五箇(ごか)」と呼ばれていた太田川河口に形成されたデルタでした。

同年8月末ごろから普請が本格化し、1591(天正19)年には毛利輝元が郡山城から広島城に入城しました。本丸は完成していたものの石垣や堀は未完成だったため、その後も工事が進められています。築城には、大坂城や京都の聚楽第(じゅらくだい)を模範にしたとされます。

現在は内堀しか残っていませんが、当時は内堀の他、中堀・外堀が張り巡らされており、西は本川を天然の堀として利用。南の瀬戸内海と城下を流れる太田川の分流を天然の要害としていました。

広島城は全くの平地につくられた平城ですが、非常に実戦的な城構えであるといえます。現在は一部しか残っていませんが当時の敷地面積は広大で、南は相生通(あいおいどお)り、東は上八丁堀、西は中央公園自由広場西端までが広島城の城内。城郭の規模は、豊臣秀吉の大坂城や伏見城に次ぐものと称されています。

広島城の築城と城郭の規模

広島城と福島正則

毛利輝元は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで敗北し、防長二州に転封されます。その後広島城に入城した福島正則は、城や城下町の整備をさらに進め、現在の広島の基礎を築きます。

しかし1617(元和3)年に、太田川の洪水により堤防が決壊。洪水で破損した広島城の石垣を無断で修築したことを幕府にとがめられ、1619(元和5)年に転封を命じられてしまいます。

この洪水がなければ、福島正則がそのまま広島藩を治めていたかもしれません。

広島城

住所
広島県広島市中区基町21-1
交通
JR広島駅から広島電鉄広電宮島口行きで14分、紙屋町東下車、徒歩15分
料金
天守閣=大人370円、高校生以上180円、中学生以下無料/(障がい者手帳持参で無料、65歳以上は公的証明書持参で180円)

『広島のトリセツ』好評発売中!

地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から広島を分析!

広島県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。広島県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!

【見どころー目次より抜粋】

Part.1:地図で読み解く広島の大地
冷泉数はトップクラス!?知られざる広島と温泉の関係
宮島の紅葉谷は人工的に造られたものだった!
断崖絶壁に建立された千光寺と尾道の町並みの秘密 ほか

Part.2:広島を駆ける充実の交通網
歴史に翻弄された路線 幻の「国鉄宇品線」に迫る
JR天神川駅の駅名になっている天神川ってどこにあるの?
廃線となった可部線の復活劇!全国初のその経緯とは? ほか

Part.3:広島で動いた歴史の瞬間
神武天皇も広島に来た?神武東征ゆかりの地を巡る
海上交通網を制するためあえて三角州に広島城を築城
4年間で県名が5回も変更 譜代大名ゆえの苦悩とは? ほか

Part.4:広島で生まれた産業や文化
レモンは瀬戸内海がお好き?広島県のレモン栽培
平清盛が崇敬した嚴島神社の魅力を探る
広島に「○○ちゃん」というお好み焼き店が多いわけ ほか

<コラム>
データで分かる全23市町 人口、観光、農業・漁業
絵図と写真で見る広島の鉄道
絵図で見る広島の城下町
絵図で見る広島の名勝地
絵図で見る安芸の宮島 ほか

『広島のトリセツ』を購入するならこちら

リンク先での売上の一部が当サイトに還元される場合があります。
1 2

記事をシェア

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!