更新日: 2024年1月26日
広島城は海上交通網を制するためにあえて三角州に築城された
戦国武将である毛利元就の孫・毛利輝元は、土地が狭く地盤の弱い三角州の上に、広島城を築城しました。
全ては、城下町を経済的に発展させるためです。
広島城築城までの流れと毛利元就の成長
毛利元就(もとなり)は、広島県の中山間地に位置する吉田(現在の安芸高田市吉田町)出身の武将です。地方の一豪族から成り上がり、中国地方一帯を支配する戦国武将へと成長しました。
毛利元就は、可愛川(えのかわ)と多治比川(たじひがわ)の合流点の北側に位置し、吉田盆地を見渡す場所に築城した郡山城(こおりやまじょう)を居城としていました。郡山城は、戦国時代によく見られた山城です。守りやすく攻めにくい、戦時には非常に優秀な城です。
しかし10州112万石以上といわれる広範囲の領土を治めるには、経済力も必要となります。経済的発展が見込める城下町の整備は、戦国大名にとって大きな課題でした。
城下町形成には広い土地が必要となりますが、山間の郡山城周辺には平地が少ないのです。合戦のための山城ではなく、新しい形式の城と城下町が必要でした。
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