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毛利元就が毛利氏を支える立場に
ところが家督を継いで10年、わずか24歳で興元が急逝。毛利元就は家督を継いだ兄の子・幸松丸(こうまつまる)(2歳)の後見人として、毛利氏を支えることになります。
この時点の毛利元就は、本家を支える分家筋の1人でしかありません。しかしこの「幼い当主を、分家筋の人間が支える」という構図が、今後の毛利氏の行く末に大きく影響することになります。
毛利元就が家督を継ぎ勢力を拡大
幸松丸が家督を継いだころから、尼子(あまご)氏の安芸侵略が激しくなりました。毛利は代々大内氏の支配下にありましたが、ここで一旦大内氏を離れ尼子氏の傘下に入ります。毛利元就は尼子軍として大内氏の鏡山城を攻略するなど、武功を立てています。
この戦の最中、1523(大永3)年に幸松丸が9歳で死去。本家筋である長男・興元の家系が途絶えたため、分家筋である次男の毛利元就が家督を継ぐこととなりました。
毛利元就は家臣から「元就の家督相続を希望する」という書類を集め、周りからの希望に応える形で家督を相続したため、尼子氏も元就の家督相続を承諾。しかし家臣の中には、毛利元就の異母弟である元綱を後継者に推挙する者もいました。
その家臣が尼子氏と通じ、謀反を計画。当主となった毛利元就が最初に手掛けたのは、元綱一派の粛清でした。家督相続に付け込み毛利氏を分断させようとする尼子の勢力を排除し、不満分子を一掃するため、元綱に味方し尼子と通じていた家臣を滅ぼし、元綱も殺害。
その後尼子氏との関係を保ちつつも、再び大内氏の傘下となりました。毛利氏の勢力拡大は、ここから加速します。
毛利元就が家督を継いだ1523(大永3)年ごろの中国地方の勢力図
大内氏が周防・長門など6カ国の守護、尼子氏が山陰山陽など8カ国の守護だったのに対し、毛利氏は安芸国の国人領主にすぎませんでした。
毛利元就と尼子氏との郡山合戦
そして最初の危機となったのが、1540(天文9)年に勃発した「郡山合戦」です。
安芸国侵略をもくろむ尼子軍が、大内方の勢力圏の端にあたる毛利氏の所領に攻めてきたもので、毛利元就の居城である郡山城周辺が合戦の舞台となりました。
毛利元就が安芸の最有力領主になる
苦戦を強いられましたが大内軍からの援軍もあり、尼子氏は撤退。毛利氏は大内傘下ではありますが安芸の最有力領主に成長します。
ところが1542(天文11)年の第一次月山富田(がっさんとだ)城の戦いでは、大内軍が尼子軍に大敗。毛利元就は長男・隆元(たかもと)とともに殿(しんがり)を任され、命からがら郡山城に引き上げます。
将棋の駒のように使われる国人領主の悲哀を噛み締めた毛利元就は、毛利家中の地盤拡大を図ります。大内氏の口添えもあって三男・隆景(たかかげ)を竹原小早川家に、和睦縁組みのため次男・元春(もとはる)を吉川家に養子として送り込みます。
これにより、毛利本家を血縁関係のある分家筋が支える「両川(りょうせん)体制」が確立しました。
自らは50歳で長男・隆元に家督を譲り、毛利元就と隆元の二頭体制により、隆元を後継者として育成していきました。
毛利元就と陶晴賢との戦いの始まり
第一次月山富田城の戦いでの敗北は、大内氏にも大きな影響を与えました。この戦で後継者を失った大内義隆(よしたか)は、戦への興味を失い内政的になってしまいます。武闘派の陶晴賢(すえはるたか)はこの状況に危機感を募らせ、何度も大内義隆に進言するが全く聞き入れられません。
そこで隠居を促すも耳を貸さなかったため、最終的には謀反によって大内義隆を討ちます。毛利元就にとって大内義隆は長年の恩があり、長男・隆元は大内家から正室を迎えています。しかし「落ち目の大内義隆より、陶晴賢に味方した方がよい」という判断により、陶晴賢の謀反に加担。三次の旗返山城など、大内氏の所領である城をいくつか落としています。
通常であれば毛利が落とした城は毛利の所領となるのですが、陶晴賢はその城を接収。自分配下の代官を送り込んだのです。
自分が攻め落とした城を奪われた形となった毛利元就は、その後陶氏からの独立を決意。陶晴賢の所領だった桜尾(さくらお)城・草津(くさつ)城・仁保(にほ)城などを攻略し、明石口(あかしぐち)(現在の廿日市市佐伯町付近)の戦いでは陶軍を撃退しました。
また大内氏の混乱に乗じて安芸と備後を掌握。陶の経済基盤であった厳島も接収して宮尾城に兵を置きました。陶晴賢は海上からの厳島奪取を目指して厳島を船団で取り囲みますが、船の不足により十分な包囲網が成立しませんでした。
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦
毛利元就も船の重要性には気付いており、広島湾の水軍と小早川水軍を動員しましたが、さらに 小早川隆景に村上水軍を味方に付けるよう指示。
毛利元就・隆元、吉川元春、小早川隆景が参戦しているため、負ければ毛利の屋台骨が崩れかねません。毛利家にとっては、負けられない戦いでした。嚴島神社の神官から情報を得るなど知謀と情報戦を重ね、1555(弘治元)年の厳島合戦を迎えます。
毛利元就の勝利
陶晴賢自身が兵を率いて岩国付近から出陣。厳島に上陸し塔の岡に布陣します。毛利元就は夜陰と嵐に乗じて地御前(じごぜん)を出港。包ヶ浦(つつみがうら)に上陸し、博打尾(ばくうちお)の尾根を通って塔の岡(とおのおか)の陶軍を攻撃。
背後から襲撃された陶軍は総崩れとなり、陶晴賢は自刃しました。
毛利元就が中国10カ国を平定
厳島から撤退して桜尾城に入った毛利軍は、そのまま大内氏の所領である周防と長門を押さえ、山陽を支配。尼子氏の経済基盤だった石見(いわみ)銀山も手中に収めます。
第二次月山富田城の戦いの最中に当主である隆元が急死するという不運に見舞われるも、1566(永禄9)年に尼子氏を降伏させ、70歳で中国10カ国を平定したのです。
毛利元就が合議制を制定
この時当主である孫の輝元(てるもと)(長男・隆元の子)は13歳と、中国10カ国を治める領主としてはあまりにも幼すぎました。
不安視した毛利元就は70代になってから、小早川・吉川・福原・口羽(くちば)による合議制を制定。「血縁関係にある一族の重臣が、本家の幼い当主をもり立てるシステム」を構築しました。
このシステムがあったからこそ、毛利は織田と戦うことができたのです。
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