更新日: 2024年1月26日
毛利元就が中国10カ国を平定するまで重ねた苦労
安芸の国人領主・毛利弘元の次男として誕生した、毛利元就(もうりもとなり)。
27歳で家督を継ぎ70歳で中国10カ国を平定するまでは、苦労の連続でした。
目次
毛利元就の父弘元と兄興元による毛利家拡充
毛利氏は、南北朝時代に安芸国吉田庄(あきのくによしだのしょう)(現在の安芸高田市吉田町)に定住した国衆です。安芸はもともと守護代である安芸武田(あきたけだ)氏の支配下でしたが、安芸武田氏の勢力低下により国人領主がしのぎを削るようになります。
毛利氏も少しずつ領土を拡大。郡山(こおりやま)城を居城とし、毛利弘元(もうりひろもと)の代には有力国衆として頭角を現していました。
中国地方は大内(おおうち)氏と細川(ほそかわ)氏の対立がありましたが、毛利氏は大内方に所属。毛利弘元は対外的な圧力を避けるため、30代で家督を長男の興元(おきもと)に譲り、自身は隠居して多治比猿掛(たじひさるかけ)城に移ります。
当時4歳だった毛利元就(もとなり)も両親とともに多治比猿掛城に移りましたが、翌年に母が、6年後に父が死亡。後ろ盾は、元服したばかりの兄・興元のみとなりました。
しかし頼みの綱の興元も、大内義興(おおうちよしおき)に従って上洛。家臣に所領を奪われて城から追い出されそうになるなど、苦労が絶えませんでした。
吉田に戻った興元は備後・安芸の国人領主と連携する一方、毛利家中を拡大。毛利家の発展への基盤を固めたといえるでしょう。
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