尾道が港町となった経緯
平安時代中期、尾道浦(おのみちうら)と呼ばれていた頃はまだ瀬戸内の一漁村だったと考えられます。
同時代末期には、世羅台地に広がる大荘園「大田庄(おおたのしょう)」は栄華を誇る貴族の領地だったと記録されています。
当時、大田庄では米などの農作物が主に作られていましたが、年貢米を都へ積み出すための最適な港がありませんでした。そのため荘園から近く、地形が入り組んだ天然の良湾を形成している場所(尾道浦)を年貢保管や積み出しのための倉敷地(くらしきち)として整備するよう嘆願。1169(嘉応元)年に後白河院(ごしらかわいん)により、備後国大田庄倉敷地として認められたのです。
尾道に寺が続々と建立された理由
これにより港町・尾道が誕生。近畿方面との取引により、年貢米だけでなくさまざまな商品を輸送するようになり、町は急速に発展していきました。それとともに多くの海運業者や商人たちがこの地で起業。富や人、情報が集まる場所となったのです。
その価値に注目した将軍家や備後守護は自分たちの勢力下に尾道を置こうともくろみ、こぞって寺院に寄進を行いました。併せて港の発展によって財を築いた商人たちも寄進。
これにより多くの寺院が建立され、その数が増えていきました。特に海運業者や貨物の仲買人たちは、天候に左右される仕事の無事を祈り、進んで寄進したと考えられます。
尾道が寺院の町となった背景
室町時代は対明貿易の中継地、江戸時代には北前船西廻(まわ)り航路の寄港地として、さらには石見(いわみ)銀山(島根県)からの銀を運ぶ役割も担い、尾道は港町として繁栄していきます。
江戸時代前期になると寺院の数が最も多くなり、81カ寺あったという記録が残っています。尾道が寺院の町となったのは、港町としての繁栄があったからに他ならないですが、それは政治的な権力者よりも商人たちが支えていたのです。
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