更新日: 2024年1月13日
徳川家康の戦略年表~織田家臣従時代~天下統一まで
徳川家康の戦略年表のポイント
・今川氏より自立し織田信長と清須同盟を結ぶ
・三河一揆を掌握したのち武田信玄と結び今川領侵攻
・本能寺の変の混乱を利用し5か国の太守になった
・武田遺臣を積極的に採用し、軍事システムを吸収
・豊臣家中の対立を利用して石田三成を排除して全権掌握
・会津遠征を三成決起の誘い水に関ヶ原の戦いへ突入し勝利
・征夷大将軍の地位を2年で子に譲り、徳川の天下を世に示す
目次
徳川家康の戦略年表① 織田家臣従時代
徳川家康は織田信長の東の備えとして、武田信玄の重圧を一気に受けます。
徳川家康は今川氏から自立し織田信長と清須同盟を結ぶ
幼少期を今川家の人質として過ごし、今川一門の娘と結婚した三河の松平元康(徳川家康)は、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家から独立します。
永禄6年(1563)には、今川義元より与えられた「元」の字を捨てて名を徳川家康と改めて、今川家との決別を示し、さらにのちに姓を徳川に改めました。また、桶狭間で敵対した織田信長と清須同盟を結び、以後、信長の東の藩塀(はんぺい)として行動するようになります。
ですが、ここで三河一向一揆(いっこういっき)が勃発します。家臣のなかにも一向宗門徒であるために、一揆に身を投じた者が多数おり、5か月におよぶ戦いは徳川家康にとっては試練の鎮圧戦となりました。
三河を掌握した徳川家康は武田信玄と結び今川領侵攻
一向一揆を鎮圧した徳川家康は、今川氏より東三河を奪還すると、武田信玄と結び、永禄11年(1568)、今川領に東西から攻め込みます。徳川家康は今川氏真が逃げ込んだ掛川城を開城させ、遠江を手に入れたのです。岡崎から遠江浜松城(はままつじょう)に本拠を移したのもこの頃のことです。
しかし戦いのなかで武田信玄の敵対行動を受けて同盟は破綻(はたん)します。しかもその信玄が足利義昭や諸大名による信長包囲網に加わったため、織田信長および徳川家康の最大の敵となりました。こうして元亀3年(1572)、徳川家康は上洛のため西上を始めた武田信玄を、遠江で迎え撃つこととなります。
戦国の豆知識:徳川家康の織田家臣従時代
徳川家康ははじめ、岡崎城から遠江へ移るとき、遠江の国府だった見付(磐田郡)に居城を築く予定でした。ところが武田信玄との関係が怪しくなり、見付だと天竜川が〝背水の陣〟になってしまうことから、すでに商業都市として賑わっていた引馬(引間)に城を築き、浜松城と命名しました。
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