亀岡盆地に霧が多い理由
亀岡盆地に霧が多い理由は、気象と地形の2つの観点から説明できます。亀岡市の霧は、よく晴れた日の夜に地表付近の気温が上空の気温よりも低くなる「放射冷却」により発生します。四方を標高400~900m級の山に囲まれた亀岡盆地は、冷気が留まりやすく、放射冷却はほかの地域より強くなります。つまり、霧が発生しやすいのです。
亀岡盆地には、冬季になると日本海側から冷たい風が吹き込むものの、北東部から北部にかけてそびえたつ愛宕山山系がそれを遮るので、空気の流れがふだんはゆるやかです。そのため初秋から春にかけて、いったん発生した深い霧が何時間にもわたって留まりやすいのです。
亀岡からの「保津川下り」で有名な保津峡の成り立ちと景観
そんな亀岡市は、霧に着目するずいぶん前から川や渓谷を観光資源として活用してきました。船頭が櫂(かい)だけで舟を操作し、亀岡から嵐山まで約16㎞の保津峡と呼ばれる渓流を約2時間で下るスリル満点の「保津川下り」です。
保津峡は、丹波断層の活動によって平野が隆起する速度より、保津川の浸食で谷が削られる速度のほうが速かったことで形成された渓谷です。蛇行している川の両岸には、長年にわたる川岸の浸食による絶壁が続き、巨岩や奇岩が連なる景勝地となっています。
「保津川下り」の歴史は100年以上!
そもそも保津川は、1606年に丹波地方の良質な木材を都へ運ぶ重要な水路として開削されました。明治時代に入ってから舟下りが観光に使われるようになったというのですから、すでに100年以上の歴史があります。
保津川の名前の由来は神話にある?
なお、保津川は、「出雲神話」で有名な大国主神(おおくにぬしのかみ)と深い関わりがあります。亀岡では、大国主神が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り拓いて水を流し、土地を開拓したと伝えられます。そして大国主神は、妻である三穂津姫命(みほつひめのみこと)の名前にちなんで「保津川」と名づけたという伝説が残っているのです。
流域によって名前が変わる保津川
保津川という名前は、渓谷と関係しているためか、亀岡市中域から嵐山あたりまでの地域のみで使われています。亀岡市のほかの地域では「大井川」、京都市右京区京北町流域では「上桂川(かみかつらがわ)」、嵐山公園あたりは「大堰川(おおいがわ)」、嵐山を出ると「桂川」と呼ばれています。桂川は、場所によって名前が変わるのです。
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・京都府の4地形区と断層/京都盆地とその出入り口(逢坂と大山崎)
・琵琶湖疏水の秘密/洛中と洛外を隔てるおどい
・観光のメッカ東山の地形(地獄の入り口六道珍皇寺)
・失われた巨椋池/天橋立はなぜあのような地形になったのか
・舞鶴が重要港湾となった地形的な秘密
・霧のまち亀岡(亀岡盆地)
…などなど京都のダイナミックな自然のポイントを解説。
Part.2 京都を駆ける充実の交通網
・山城盆地を通る街道(東海道、中山道の終着地)
・若狭と京都を結ぶ「鯖街道」
・日本初の一般営業用電車が通った京都市電
・京都鉄道博物館
・梅小路
・京都の私鉄〇〇な阪急
・大赤字から復活した京都丹後鉄道
…などなど京都ならではの交通事情を網羅。
Part.3 京都の歴史を深読み!
・丹後に一大勢力が存在した証拠 三大古墳に埋葬された人々
・古代日本を支えた渡来人と京都の関係
・なぜ京都は都になったのか 恭仁京~平安京までの変
・南北朝動乱の始まり 笠置山の戦い
・信長、光秀、秀吉…みんな京都で死んだ
・幕末の騒乱の舞台となった京都
・近代化にいち早く着手!日本初の博覧会は京都の寺で開かれた
…などなど、激動の京都の歴史に興味を惹きつける。
Part.4 京都で育まれた産業や文化
・シンボル京都タワーと近代建築
・学問の都・京都の大学
・京料理とそれを支える伝統野菜
・「丹波」ブランドをめぐる攻防
・日本映画と京都
・「女酒」伏見の酒蔵
・王城の裏鬼門「男山」と岩清水八幡宮
…などなど京都の発展の歩みをたどる。
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