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「洛中」「洛外」とは?京都市内中心部と外を区分するために築かれた「おどい」 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年9月23日

「洛中」「洛外」とは?京都市内中心部と外を区分するために築かれた「おどい」

京都市の中心部と周辺部を区分する「洛中」「洛外」という呼び名。
その境界を明確にするため、豊臣秀吉によって「おどい」は築かれました。

≪ポイント≫
・京都中心部を「洛中」としてその外を「洛外」ととらえた
・現在の「洛中」「洛外」を形作ったのは豊臣秀吉
・「洛中」「洛外」の境界は「おどい(御土居)」によって明確化された

「洛中」「洛外」とは

現在の上京区、中京区、下京区にあたる京都市の中心部は、かつて「洛中」と呼ばれましたその周辺部は「洛外」で、洛外はさらに「洛北」「洛南」「洛東」「洛西」に区分されています。

洛中・洛外の境界線と「洛」の由来

」の由来は、古代中国で何度も都となった「洛陽」から。平安京はこの洛陽と、やはり中国で都が置かれた長安を参考につくられ、当初は御所から見て右側の地域を「長安城」、左側を「洛陽城」と呼んでいました。

やがて地盤の悪さなどから長安城は寂れ、平安時代中期ごろから京都市中を「洛陽」と呼ぶようになり、洛中や洛北などの区分ができたのは鎌倉時代以降とされます。

ただ、城壁を持たない平安京は完成当初から境界があいまいで、唯一左右に壁を持った南端の「羅城門(らじょうもん)」も平安時代後期に倒壊。そのため洛中・洛外の境界線は明確でなく、現代の区割りと同じではありませんでした。

平安京の条坊図

平安京の条坊図

主要道路である朱雀大路は現在の千本通に該当。南端の羅城門をはさんで東寺と西寺が建立されましたが、西寺は鎌倉時代に廃れたと考えられています。

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