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終戦直前の熊谷空襲と埼玉県域への戦時疎開 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

終戦直前の熊谷空襲と埼玉県域への戦時疎開

戦時中、埼玉は東京からの疎開者を受け入れました。
比較的、戦火に巻き込まれる機会は少なかったのですが、終戦直前、熊谷が大規模空襲を受けてしまいます。

熊谷大空襲の1年ほど前から疎開民が東京から埼玉県に集まる

1944(昭和19)年にマリアナ諸島が陥落すると、日本の本土は米軍のB29の航続距離内に入りました。つまり、本土(とりわけ首都圏)が空襲を受けるようになったわけです。

時局の悪化にともない、日本では国策として軍事施設や工場、住宅の疎開が強力に推進されるようになり、埼玉県は首都に隣接する地理的な状況から、東京からの疎開民を受け入れるようになりました。

疎開先として人気だった埼葛地区

とりわけ疎開者による人口増加が顕著だったのは埼葛(さいかつ)地区(県北東部地域)で、幸手町、杉戸町、上高野村(かみたかのむら)、川辺村(かわべむら)(いずれも旧名)の人口増加率は50%を超えました。この周辺地域は穀倉地帯の農村で、空襲の心配もなく、買い出しに出るにも市場があるなど便利なため、疎開先として好まれたのです。

疎開民や罹災者の受け入れで戦中・戦後は人口増加

疎開を積極的に受け入れた結果、埼玉県の人口は164万3932人(昭和19年)から204万7090人(昭和20年)と、戦時中にもかかわらず大幅に増加しました。

また、1945(昭和20)年3月の東京大空襲以降、東京が大規模な空襲を受けるようになると、埼玉では罹災者を受け入れ、とくに県東部から県北部にかけて人口が増加。同時に、県内の食糧事情や生活物資の不足などは深刻化していきました。

疎開による埼玉県域の人口増加(昭和19〜20年)

戦局が悪化するにつれ、埼玉には京浜地区からの疎開民が殺到。県内人口は164万3932人(昭和19年)から204万7090人(昭和20年)と24.4%も激増しました。

内訳は市部の9.7%増に対し郡部は28.4%増。大宮や川越以北の都心から40㎞以遠の農村部での増加が顕著でした。とりわけ中川低地の穀倉地帯にある幸手町(現・幸手市)、上高野町(同)、杉戸町、川辺村(現・春日部市)で増加率50%超。

また、比企丘陵にある高坂村(現・東松山市)、唐子村(同)、今宿村(現・鳩山町)、菅谷村(現・嵐山町)、竹沢村(現・小川町)、大河村(同)も50%超の増加率を示しましたが、こちらは一般人の疎開に加え、地下工場や軍事施設関係者の流入者も多くありました。

関東圏の都市の中では空襲が少なかった埼玉県

太平洋戦争中、埼玉県域は約40回の空襲を受け、とくに県南部の工場地帯(川口市など)はたびたび被害にあいました。大里・比企郡の部隊駐留地も狙われましたが、それでも埼玉県域が「第一攻撃目標」とされることは少なく、東京や川崎などのほかの関東圏の都市ほどは被害を出していませんでした。

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