小倉城の天守閣の焼失と復元案
江戸時代の記録をみると天守5層目に「慶長十五年十一月」と記された棟札(むなふだ)があり、8年後に竣工したことがわかります。ところが、それから約230年後の天保8(1837)年正月4日、天守は城内の大火で焼失、天守台のみとなってしまいます。2年後に再建されるも、天守閣は造られませんでした。
小倉城の天守閣の史実に基づいた復元案
幕末より前に焼失した小倉城天守は外観を写した古写真は勿論のこと、江戸時代の絵図・指図もほとんどない状態でした。しかし、昭和22(1947)年に「小倉城絵巻」に描かれた5層6階建ての天守を参考に、東京工業大学の藤岡通夫教授が小倉城天守の復元案を発表しました(後に「豊前小倉御天守記」などに記された小倉城天守の寸法・記載内容に合わせて4層5階建てに修正)。
藤岡教授は、当初の小倉城天守は、破風や屋根を持たないシンプルなタワー型の層塔型天守に2層の望楼(展望台)を乗せた「唐造り」の天守だったと提唱しました。これは、望楼型と層塔型天守の良いところ取りという、文武に通じた武将細川忠興がいかにも好みそうな折衷型モデルの天守といえます。
小倉城の天守閣は見た目重視の奇妙なデザインに!?
昭和34(1959)年、小倉城一帯で博覧祭が企画され天守台に模擬天守を建設する話が持ち上がり、さっそく藤岡教授に天守の設計が依頼されました。ところが、実際に建てられた模擬天守は、本来はないはずの破風や屋根が加えられた奇妙なデザインとなっていました。この模擬天守について、天守が完成した時に開かれた座談会の席で小倉郷土会の劉寒吉氏が、藤岡教授にその理由を訊ねると、藤岡教授は「“依頼者である会社の人から各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなくては観光客に訴える力がない”と強硬に責められたため仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ」と弁明したといいます。なんとも悩ましい話です。
これまで様々な天守の復元を手がけた藤岡教授も、屋根や破風があってこその天守閣、城らしい城にしてほしいというクライアントの強い要望を断れなかったようです。しかし、城の石垣は築城当時のものが使われており、中世に多く用いられた「野面(のづら)積み」が今も見られます。ほかにも石垣の建築に携わった家臣が残したと思われる「卍」の刻印や、城の周りを囲む堀は現存する遺構です。
小倉城の天守閣の現在
現存する模擬天守は本来の姿と大きく異なる小倉城ですが、平成31年3月に天守閣をリニューアル。天守閣前の広場には小倉とゆかりのある宮本武蔵、佐々木小次郎のモニュメントが登場し、ライトアップも行われるようになりました。築城においてもっとも重要なテーマのひとつである防衛策より、『見た目』を重視した造りにできるということは、現代の日本がいかに平和であるのか…という象徴なのかもしれません。
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