目次
福岡の中世の歴史②:宋との貿易が盛んに行われ一大貿易都市に
宋の商人との貿易は鎌倉時代になっても盛んで、この頃に繁栄した港が今津です。今津の入江からは宋銭や南宋で焼かれたという陶磁器が多く見つかっています。また、筥崎宮の荘園のうち26町は宋人が持っており、筥崎宮に唐鞍・唐絹などを納めていたとされます。
宗像氏が支配していた鐘崎、神湊周辺にも宋船が出入りしており、博多湾内に貿易拠点として小呂島(おろのしま)を構え、貿易に従事していた謝国明に監視させていました。宗像大社神宝館にある阿弥陀経石や宋風石造狛犬などは、宗像と宋商人との結びつきを物語る品です。
宋から伝わった禅宗は、貿易口であった今津や博多を中心に広がっていきました。仁治3(1242)年には、円爾(えんに)、博多綱首の謝国明、御家人武藤資頼(むとうすけより)らによって承天寺が建立されました。円爾は北九州における臨済禅の発展の礎を築いた人物でもあります。また、博多祇園山笠は円爾が疫病の流行を退散させるため、祈祷した聖水を奉じて施餓鬼(せがき)棚に乗り博多を回ったのが始まりという説もあります。
福岡の中世の歴史③:蒙古襲来で町が焼き尽くされる
モンゴル帝国第5代皇帝であり、元の初代皇帝、フビライ・ハンは、日本へ丁寧な国書を送るも、幕府から日本征服の野心があることを見抜かれ、瀬戸内海沿岸や九州沿岸の警備を強化されます。その後も6回にわたり使者を送ってきましたが、幕府は応じなかったため、ついに文永11(1274)年、対馬・壱岐を侵略、今津・百道・筥崎の3か所から上陸し九州の御家人と激戦を繰り広げます(文永の役)。筥崎宮や博多の町は焼き尽くされ、日本軍は押され気味でしたが、一夜明けた翌朝、博多湾内から元軍が姿を消し、いなくなっていました。伝説では夜に「神風」が吹き元軍を消滅させたといわれているが定かではありません。
福岡の中世の歴史④:二度目の蒙古襲来
文永の役の後、沿岸部の備えを厳しくするために造られた石築地が元寇防塁跡です。香椎から今津までおよそ20kmにも及ぶ防塁は、幅と高さ約2.5~3mという巨大なものでした。弘安4(1281)年、二度目の蒙古襲来(弘安の役)時は日本軍が激しく抵抗し、元軍は1週間も上陸できず最後は玄界灘で暴風に遭い、戦力の大半を失い逃げ帰ったとされます。
福岡の中世の歴史⑤:再び博多焼失も…豊臣秀吉により再興へ
時代は室町、戦国と進み、永禄2(1559)年、博多に大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟)が来襲し、当地の領主と戦いを繰り広げ町は焼き尽くされてしまいました。その後、天正15(1587)年に九州を平定した豊臣秀吉が博多の浜に上陸。5人の奉行に博多の再興を命じ、即座に町割りを始めたことをきっかけに、再び博多は賑わいを見せました。
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