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関門トンネルの歴史は苦難に満ちた”魔海”を掘り抜く大工事にあった!
関門国道トンネルは“魔海”と言われた関門海峡の底を掘り抜く大工事で、昭和12(1937)年に調査工事に着手、戦争による休止期間を含めて、21年にわたる国を挙げた一大事業でした。
実は、それ以前に内務省土木局(現在の国土交通省)では、昭和8(1933)年から関門連絡道路の調査を始め、中央支間長720mの吊橋の設計を昭和11(1936)年度に完了していたのですが、軍の反対で実現を見るに至りませんでした。一方で、神戸土木出張所から着任して間もない加藤伴平氏が中心となり海底道路トンネルの計画を昭和9(1934)年頃から進めていました。
当時開通していた道路トンネルの数は少なく、トンネル建設経験者が少なかったが故、突然海底道路トンネルの計画を任された加藤技師の苦労は、並々ならぬものであったことがうかがわれます。
関門トンネルの歴史は日本の自動車専用トンネル工事の歴史でもある
鉄道分野においては多くのトンネル実績を持っていましたが、そのほとんどが単線トンネルであり、断面が大きい複線断面のトンネルは昭和9年に丹那(たんな)が開通したのみで、自動車専用に近いトンネルは勿論、機械換気設備を施した道路トンネルは一本も存在しませんでした。
また、トンネルの断面を決める当時の構造令は、現在のように細かいところまで規定しておらず、幅員も国道は7.5mでその中に、自動車のほか牛馬車、荷車、自転車、人の混合交通であり、自動車専用という考えはありませんでした。
関門トンネルの開通は国民に強く望まれていた
関門海峡早鞆(はやとも)ノ瀬戸は、その幅わずか700mに過ぎませんが、瀬戸内海ののど部に位置するため潮の流れが速く、本州と九州の隔たりを一層大きいものにしていました。これを海底隧道によって直接結ぶことは国民の久しく念願していたところであり、自動車交通の発達に伴い、道路隧道の速やかなる開通が切に望まれていました。
関門トンネルの歴史と苦難:掘削工事
そんな中で十分な予算も得られず始まったトンネル建設は、当然ながら困難を極めました。
関門トンネルの掘削工事での苦難①:洞窟から吹き出る水の止水に3日間
最初の壁は、昭和15(1940)年に遭遇した「洞窟」です。
花崗岩層と3つの断層破砕帯を抜いて石灰岩層に入り、立坑から200mのあたりに差し掛かったとき、突然前面の岩盤が揺らぎ出したと思う間もなく、ものすごい勢いで水が噴き出してきました。見ると直径1mばかりの穴がぽっくりと口を開けています。慌ててコンクリートの塊を投げ入れて口を塞ぎ、セメント180袋に火山灰を混ぜたものを3日間注入してようやく水が止まりました。
調査の結果、この穴は前後に無限に続いていることが分かり、鍾乳洞と思われました。
関門トンネルの掘削工事での苦難②:手作業での断層破砕帯の掘削
次に問題となったのは、昭和16年に対面した「断層破砕帯(だんそうはさいたい)」です。
断層破砕帯とは、地震を引き起こす断層が発生し、その付近に玢岩(ひんがん)が分布する帯状地質をいいます。
断層破砕帯の掘削は、落盤を防ぐために厚い松板を天井に打ち込み、これを支保工(しほこう)で支えるという手作業の「縫い地工法」で掘り進めるしかありませんでした。
関門トンネルの歴史と苦難:事故による犠牲
その後も、昭和20(1945)年には空襲に遭い陸上諸施設を破壊され、昭和22(1947)年にはマッカーサーが工事中止令を発令するなど計画当初には想像もしなかったような出来事が続きました。
関門トンネルの工事事故による苦難①:爆破事故
さらに昭和27(1952)年8月、大きな掘削面をもつ作業鋼製架台ジャンボーを使いダイナマイトの準備を行っている最中、電気アースの不良により爆破事故が発生しました。作業員は高能率のジャンボーに期待していましたが、死亡事故となってしまったため従来の工法に戻すこととなり、またしても工事は遅れることになりました。
関門トンネルの工事事故による苦難②:地滑りによる大事故
完全開通まで5年となった昭和28(1953)年11月、下関側の椋野(むくの)立坑工事現場の地滑りで2人が生き埋めとなる大事故が発生しました。
この換気立坑は建設会社の間組(はざまぐみ)に請け負わせていたもので、できあがった直径10mのコンクリートの井筒を40mの深さに埋め込んでいたとき、前夜からの雨で緩んでいた地盤が突然地滑りを起こし、重さ800tもあろうかというコンクリートの井筒が、穴に吸い込まれるように落ちて行きました。穴の周縁に立っていた十数人の作業員は地面が動きだしたため這うようにして難を逃れますが、逃げ遅れた3人が巻き込まれてしまいました。
本州と九州を結ぶ大切な関門国道トンネルですが、完成までは苦難の連続であり、建設工事は21年の長きにわたり、その間に失った人命は53名にも上ります。
関門国道トンネルの歴史は独自の開発と技術の集結により成し得た
作家古川薫が関門トンネルの建設を小説にした『夢の道・関門海底国道トンネル』のタイトルにもなっている“夢の道”とは、初代中尾建設事務所長が設計し命名したもので、海底トンネルの中に人道を作るという夢を描いたものです。しかし、世間は“狂人の夢”と呼びました。
関門国道トンネルは「日本の技術、恐るべし」といわしめた
当時開通していた水底道路トンネルは西欧に4例しかありませんでした。しかも海底での事例もありませんでした。そのため、欧米の先進技術を導入するという安易な環境ではなく、独自の技術を開発、施工を続けるしかなかったのです。
独自技術の中でもトンネル内の換気で開発した「軸流可変ピッチ送風機」は、現在一般的な装置となっている「ジェットファン」の先駆けとなりました。完成時に現場見学した西欧の記者たちは「日本の技術、恐るべし」と記事にしたとされています。
関門トンネルの縦断勾配
当時は国道の縦断勾配は特別の場合を除き4%を標準としていました。外国の水底トンネルの例も3~4%であったため4%を基準に計画しました。
海底部の最深部が門司立坑寄りにあり、この位置で土被りをいくら採るかが大きい問題となったはずです。深浅測量で水深は分かっていましたが海底面に基盤が露出しているものか、堆積層の厚さがいくらあるかが問題でした。特殊潜航艇で調査した結果、最深部は転石層で2.5mと推定し、掘削径12mに対し基盤厚を13mとし土被りを15.5mとして縦断線形を決めました。縦断勾配は下関側の分岐区間の4%を除き他は3.84%としました。
関門国道トンネルの歴史背景には人々のあくなき執念があった
関門トンネルは“魔海”といわれた関門海峡の底を掘り抜く大工事でした。禅海の“青の洞門”、大庭源之丞の箱根用水の現代版ともいえるトンネル掘削苦闘史です。
トンネル工事には例を見ない集中的な悪条件に耐えながら、21年間にわたる執念を燃やし続け、ついに貫通した関門トンネルは、21世紀クロニカルに特筆すべき日本人の特性を象徴する歴史的記念碑といえるでしょう。
関門海底国道トンネル人道
- 住所
- 山口県下関市みもすそ川町22
- 交通
- JR山陽本線下関駅からサンデン交通長府方面行きバスで12分、御裳川下車すぐ
- 料金
- 通行料(自転車・原付)=20円/通行料(歩行者)=無料/
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