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石上神宮の本殿造営の経緯

本殿造営のきっかけとなったのは明治7(1874)年の御神体の発掘でした。旧水戸藩士、菅政友(かんまさとも)は明治6(1873)年、石上神宮初代大宮司に就任し、わずか4年の在任期間に七支刀の銘文発見をはじめ多くの功績を残しました。菅の就任の目的は、御神体の存在を明らかにし神宮の由緒を確かにすることと、禁足地に埋斎されているであろう神剣を盗掘者から守ることでした。

菅は石上神宮の禁足地調査を申請した

翌年7月、菅は元禄12(1699)年編纂の『石上大明神縁起』のなかの「禁足地に石籬(せきり)があり神剣が石櫃に安置されている」という社伝に注目し、禁足地調査を神宮監督官庁にあたる教部省に申請しました。

石上神宮の禁足地調査では伝承どおり神剣が発見された

翌8月、教部省地方官立会いのもと調査が行われました。すると、地表下0.3mの場所に約2.7m四方に敷き詰められた古瓦と、その下に0.3mの礫(こいし)を積んだ石囲いが出ました。地表下約0.9m地点が石室のようになっており、多くの勾玉、管玉などとともに全長85cmの刀身だけの鉄剣1振りが発見され、伝承の正しさが証明されたのです。

当時、寺社の聖域の発掘調査は極めて異例のこと。菅は水戸の彰考(しょうこう)館で主事を務め、『大日本史』の編纂に従事した日本史学者でもあり、その学術的な熱意が禁忌を破り歴史的発見につながりました。

石上神宮ではその後も数々の出土品が見つかった

その後仮本殿造営および本殿造営工事の際にも出土品の発見があり、剣がさらに3振り見つかりました。ほかに鉾残片勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、環頭式柄頭(かんとうしきつかがしら)などが出土したと伝わっています。

石上神宮の本殿には出土した神剣が祭られた

大正2(1913)年には、出土した神剣を祭るための本殿が拝殿後方の禁足地に完成しました。江戸後期に再建した神庫は、この時期禁足地内に移動し、神剣出土地は拝殿と本殿の間に大きな石を置いて標示されました。

石上神宮で出土した神剣は古代のロマンをかきたてる

出土品に関する研究はその後も重ねられましたがなお謎も残ります。石上神宮の神聖な地下で長い年月眠っていた剣は、古代のロマンをかきたててやみません。

石上神宮で出土した神剣は古代のロマンをかきたてる

現在では国の重要文化財に指定されている楼門。

石上神宮

住所
奈良県天理市布留町384
交通
近鉄天理線天理駅からタクシーで10分
料金
無料

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<コラム>
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