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吉備真備は帰国後大学寮で儒学や法学、算術などを教えた
帰国後、吉備真備は大学寮の大学助に任命されました。大学寮は中央の官吏養成機関で、大学助は副学長のような職と捉えられています。唐の典籍を使ってみずから儒学や法学、算術などを講義したとされます。
吉備真備の記録で安倍晴明も学んだ?陰陽道を用いて政治でも活躍!
吉備真備は玄昉(げんぼう)の引き立てで 橘諸兄(たちばなのもろえ)に重用され、聖武天皇時代の政治にも参画しました。
唐から陰陽道の聖典を持ち帰り、陰陽道に通じていたとされる吉備真備は、それを用いて政治でも活躍を見せます。『今昔物語集』は、天平12(740)年、藤原広嗣(ひろつぐ)が反乱を起こし処刑された後、怨霊となって玄昉を八つ裂きにしてばらまいたため、吉備真備が陰陽道の術で広嗣の怨霊を鎮魂したと伝えています。
ちなみに、かの有名な安倍晴明(あべのせいめい)も、吉備真備の記録を通じて陰陽道を学んだとされています。
吉備真備は再び遣唐使に
その後吉備真備は阿倍内親王の東宮学士(教育係)を経て、天平15(743)年に親王の家政機関を司る春宮大夫(とうぐうだいぶ)を拝命。親王が孝謙天皇に即位すると、天平宝勝4(752)年、再び遣唐使を任ぜられ大役を果たしました。
しかし、帰国後は政情の変化により九州の大宰府へ左遷。70代の高齢となり引退を決意したところで一転、造東大寺長官として平城京に呼び戻されます。
吉備真備はカタカナも発明?前代未聞の栄達を遂げた人生は伝説化された
都に戻った吉備真備は、天平宝字(てんぴょうほうじ)8(764)年、知略で藤原仲麻呂の乱を平定。最終的に右大臣にまで昇りつめたのです。下級貴族から前代未聞の栄達を遂げた吉備真備の人生は後世に伝説化されていきました。
ちなみに私たちが使っているカタカナも吉備真備が発明したという説があります。吉備真備が関わったとされる文化は現代にも脈々と息づいているのです。
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